blog 迷子のままに:

山下耕平(やました・こうへい)
NPO法人フォロ事務局長、不登校新聞社理事など。

不登校、ひきこもりなどを中心に、書いてます。
一部は「なるにわブログ」から引き継いでます。

   

低く見積もられる側に立つということ

お金の使い方には、その人の価値観が反映される。フリースクールや居場所などの場合、その価値が低く見積もられていることも多く、切り捨てられる対象となりやすい。学校や塾や、あるいは医者やカウンセラーなどには高いお金を払っても、フリースクールや居場所には、お金を払うだけの価値は見いだしてもらいにくいのだ。それがなぜかと言えば、「解決」をそこに見いだせないからだろう。「解決」してもらえる期待を持てないから、と言ったほうがよいかもしれない。

お金を出す側の期待を背負って、「解決」を提示したり、引き受ければ、お金は入ってくるようになるかもしれない。そこで、ややもすると「不登校でも成功した」とか、「ひきこもりから脱出した」とか、そういう幻想をふりまくことになる。でも、それは幻想でしかないし、幻想を背負ったツケは、どこかでかならずまわってくるだろう。また、それは、お金を出す側の価値観に従うということであって、その価値観に対峙することにはならない。

お金を出す側の価値観からは、低く見積もられてしまう。それがくやしい。だから、高く見積もってもらえるようにしたい。そういう気持ちが、関係者のなかにはあるのではないか。それは、お金がほしいというよりも、価値として低く見積もられていることへのくやしさだろう。少なくとも、私には、そのくやしさはある。

たとえば、教育機会確保法案をめぐっても、フリースクールなどを制度として認めてほしいという背景に、そのあたりの心情が底に流れているように思う。

でも、そこが正念場なのだと思う。低く見積もられても、切り捨てられても、だからこそ、そこに立っていく必要があるのではないか。私は、宮沢賢治の言う「デクノボー」のように、褒められもせず、苦にもされず、そういう場所に立ち続けたいと思う。

→つづき:「デクノボーになりたい」とは言えても……

 
国立民族学博物館にて(本文と直接関係ありません)。

7/10 吉田敦彦さんとの対談

7月10日、「多様な学びと法制化をめぐる動きから見えてきたこと」というテーマで、吉田敦彦さんと対談してきた(主催:おるたね関西)。

吉田さんから、「膝詰めで本音で意見交換したい」との申し出があり、今回の対談集会となった。くわしい内容については、主催者から記録の扱いなどについて意向が示されると思うので、それを待ちたい。

私が論点として提案したのは、下記の点だった。

…………………………………………………………………………………………

・法案の土台の問題
→不登校を立法事実にしながら教育機会の確保
→個別学習計画をめぐる問題の整理

・不登校のニーズ/多様な学びのニーズ
→「休む」ことをめぐって

・「学校の外」とは何か
→「学校」に対する自律性/市場に対する自律性

・「選ぶ」ことをめぐって
→〈誰が〉〈何を〉〈どういう基準で〉?

・多様性とは?
→子どもの多様性/学び・教育の多様性
→インクルーシブ教育と教育の多様性

・公共のあり方について

…………………………………………………………………………………………

吉田さんも私も、今回の対談においては、法案への賛否ではなく、法案で問題になったことを整理するとともに、法案以前の問題をきちんと話し合い、そこから今後を考えることを旨としていた。その趣旨は果たせたように思う。

法案は、大きな社会的な動きの氷山の一角に過ぎない。法案が仮に流れたとしても成立したとしても、その情勢に変わりはない。今回の対話を、今後のための「一歩前進」としたい。

議論・対話のために

教育機会確保法案は、次の臨時国会での継続審議ということになりました。それまでに、きちんと議論をすることが必要でしょう。この間、私なりに論点を整理したいと思って、このブログに書き散らしてきました。ただ、ブログだと順番が逆になっていたり、バラバラとしていて読みにくいので、4月以降に書いたものを、いくつか、下記PDFにまとめました。

→PDF

賛否を問わず、議論できる論点は整理したつもりです。
よかったら読んでいただき、ご意見をいただければと思います。また、さまざまな方と対話できる機会があればと願っています。


「みんな」「共に」をめぐってー3

学校や市場に対して、自律的な層が必要だ、ということは、これまでも何度か書いてきた。なので、そのあたりの議論は省略して、たとえば下記を参照いただければと思う。


社会臨床学会でのシンポジウムの議論に戻れば、中島浩籌さんは、次のように話していた。

出会いの場や関係性は、学校の外と内、異性愛と「同性愛」といった既成の区分を越え、その「あいだ」に生じている。逆に言えば、その区分を問うところに生じている。その関係性、既成の区分や人材育成的な公教育に回収されえない関係性をどう考えていくのか。(2016.5.22中島浩籌「現在の状況変化の中で透けて見えてきた問題と出会ってきた問題」社会臨床学会総会シンポジウム・レジュメ)
なんだか小難しいようだが、私なりの理解で言えば、不登校にしても、既成の区分に回収されないからこそ、関係性に拓かれていく可能性を持ってきたということなのだろう。ただ、制度は常に、そこから逃げるものを回収しようとする。今回の法案も、然りだろう。そこから「共に」逃げ続けていくことが必要だというのが、中島さんの主張だったと思う。

私も、いまの社会のなかで、どうやって逃げ場をつくっていけるのかが、もっとも大事なことだろうと思う。かつてのように、不登校したというだけでは、逃げたことになり得なくなってきている。だから、フリースクールなども、人材育成などに回収されてしまっては、みずから逃げ道をふさいで自滅してしまうことになるだろう。フリースクールが自滅するのは勝手だが、善意の名のもとに、子どもの逃げ道をふさぐことに加担するのでは、迷惑千万な話だ。


●〈いっしょ〉を前提とせずに

だいぶややこしくなってきたが、もうひとつだけ、今回のシンポジウムで、〈みんな〉〈共に〉をめぐって感じたことを書いておきたい。

それは、大づかみに言えば世代差の問題だ。〈みんな〉とか〈共に〉というとき、原風景のようなものを前提としている世代と、それができない世代があるのではないか、ということを感じる。若い世代ほど、足場を〈みんな〉に置こうにも、原風景のようなものとしては根をおろせない、そこが傷んでしまっている、前提にできない苦しさがある。でも、一方で言えば、ある世代までが前提としている〈みんな〉は、〈みんないっしょ〉な感じもするのだ。〈みんないっしょ〉だからこそ安心できるというか……。

法案をめぐって議論にならず対立・分断になるのも、〈いっしょ〉ではないというところで、揉めている感じもあるような気がする。多様な意見が出たらケンカにしかならないというのでは、多様な教育もクソもないだろう。自戒を込めて言うが、未成熟というほかない。

〈いっしょ〉は前提にはならない。私たちは、そのことを前提に、新たに〈みんな〉とか〈共に〉を培っていく必要があるのだ。そして、それは制度がどうなろうと、制度には回収されないものとして、培っていく必要があるのだと思う。

プロフィール

HN:
山下耕平
性別:
男性
自己紹介:
埼玉県生まれ。大学を中退後、フリースクール「東京シューレ」スタッフを経て、1998年、『不登校新聞』創刊時から、2006年6月までの8年間、編集長を務めた。また、2001年10月、フリースクール「フォロ」設立時より、同事務局長を務める。2006年10月より、若者の居場所「コムニタス・フォロ」を立ち上げ、コーディネーターをしている(現在は「なるにわ」と名称変更)。2009年2月、『迷子の時代を生き抜くために』を上梓。

拙 著


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