blog 迷子のままに:

山下耕平(やました・こうへい)
NPO法人フォロ事務局長、不登校新聞社理事など。

不登校、ひきこもりなどを中心に、書いてます。
一部は「なるにわブログ」から引き継いでます。

   

「みんな」「共に」をめぐってー3

学校や市場に対して、自律的な層が必要だ、ということは、これまでも何度か書いてきた。なので、そのあたりの議論は省略して、たとえば下記を参照いただければと思う。


社会臨床学会でのシンポジウムの議論に戻れば、中島浩籌さんは、次のように話していた。

出会いの場や関係性は、学校の外と内、異性愛と「同性愛」といった既成の区分を越え、その「あいだ」に生じている。逆に言えば、その区分を問うところに生じている。その関係性、既成の区分や人材育成的な公教育に回収されえない関係性をどう考えていくのか。(2016.5.22中島浩籌「現在の状況変化の中で透けて見えてきた問題と出会ってきた問題」社会臨床学会総会シンポジウム・レジュメ)
なんだか小難しいようだが、私なりの理解で言えば、不登校にしても、既成の区分に回収されないからこそ、関係性に拓かれていく可能性を持ってきたということなのだろう。ただ、制度は常に、そこから逃げるものを回収しようとする。今回の法案も、然りだろう。そこから「共に」逃げ続けていくことが必要だというのが、中島さんの主張だったと思う。

私も、いまの社会のなかで、どうやって逃げ場をつくっていけるのかが、もっとも大事なことだろうと思う。かつてのように、不登校したというだけでは、逃げたことになり得なくなってきている。だから、フリースクールなども、人材育成などに回収されてしまっては、みずから逃げ道をふさいで自滅してしまうことになるだろう。フリースクールが自滅するのは勝手だが、善意の名のもとに、子どもの逃げ道をふさぐことに加担するのでは、迷惑千万な話だ。


●〈いっしょ〉を前提とせずに

だいぶややこしくなってきたが、もうひとつだけ、今回のシンポジウムで、〈みんな〉〈共に〉をめぐって感じたことを書いておきたい。

それは、大づかみに言えば世代差の問題だ。〈みんな〉とか〈共に〉というとき、原風景のようなものを前提としている世代と、それができない世代があるのではないか、ということを感じる。若い世代ほど、足場を〈みんな〉に置こうにも、原風景のようなものとしては根をおろせない、そこが傷んでしまっている、前提にできない苦しさがある。でも、一方で言えば、ある世代までが前提としている〈みんな〉は、〈みんないっしょ〉な感じもするのだ。〈みんないっしょ〉だからこそ安心できるというか……。

法案をめぐって議論にならず対立・分断になるのも、〈いっしょ〉ではないというところで、揉めている感じもあるような気がする。多様な意見が出たらケンカにしかならないというのでは、多様な教育もクソもないだろう。自戒を込めて言うが、未成熟というほかない。

〈いっしょ〉は前提にはならない。私たちは、そのことを前提に、新たに〈みんな〉とか〈共に〉を培っていく必要があるのだ。そして、それは制度がどうなろうと、制度には回収されないものとして、培っていく必要があるのだと思う。

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プロフィール

HN:
山下耕平
性別:
男性
自己紹介:
埼玉県生まれ。大学を中退後、フリースクール「東京シューレ」スタッフを経て、1998年、『不登校新聞』創刊時から、2006年6月までの8年間、編集長を務めた。また、2001年10月、フリースクール「フォロ」設立時より、同事務局長を務める。2006年10月より、若者の居場所「コムニタス・フォロ」を立ち上げ、コーディネーターをしている(現在は「なるにわ」と名称変更)。2009年2月、『迷子の時代を生き抜くために』を上梓。

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