blog 迷子のままに:

山下耕平(やました・こうへい)
NPO法人フォロ事務局長、不登校新聞社理事など。

不登校、ひきこもりなどを中心に、書いてます。
一部は「なるにわブログ」から引き継いでます。

   

仮説なんですが:不登校=寄生虫説

不登校新聞に「仮説なんですが」という連載があります。毎回、いろんな方が仮説を唱えていて興味深いです。しかしネタに詰まってきたというので私も書いてみようと思い立ったのですが、字数が規定の3倍ほどになってしまいました。編集長に相談したところ、当面はネタが入ってきたし、先に私のブログに載せてもよいというので、私の仮説を紹介したいと思います。題して、不登校=寄生虫説。


●不登校=下痢説&学校アレルギー説

児童精神科医の渡辺位さんは不登校を「腐ったものを食べたら下痢をする」との喩えで説明してました。腐った=身体に有害な細菌の増えた食べ物を摂取したら、身体はそれを早く体外に排出しようとして、下痢を起こしたり嘔吐したりする。つまりは身体の正常な防衛反応で、その摂理を見ないで下痢という症状だけを治そうとしたら、身体は壊れてしまう。不登校もまた然りということです。不登校=下痢説としておきましょう。

これと似たものに学校アレルギー説があります。不登校新聞の連載でも、井上陽子さん(フリースクール「クレイン・ハーバー」スタッフ)が学校アレルギー説を唱えてましたが(471号)、カウンセラーの内田良子さんは45年ほど前に、臨床心理の現場で子どもの話を聴いていくなかで、不登校は学校アレルギーではないかと感じたと言ってました(不登校50年証言プロジェクト#31参照)。喩えとしてはよいですが、実際のアレルギーというのは免疫の過剰反応のことですね。その治療は減感作療法(少しずつ慣らす)だったりします。不登校への対応でも、イギリスの行動療法はこういう考え方にのっとっていて、悪名高い「校門タッチ」はこの療法の流れをくむものです。


●不登校=寄生虫説

これにヒントを得て、新しい仮説を唱えてみます。すなわち不登校=寄生虫説です。学校という「身体」は、異物を次々に排除してきました。養護学校義務化(1979年)によって障害児を排除し、2000年代以降は発達障害の子を特別支援学級へと排除し、「異物」を排除すればするほど、学校は息苦しくなってきたと言えます。

これは何かに似ています。免疫学者の藤田紘一郎さんは、寄生虫を身体から排除したことによって、花粉症などのアレルギーが増えたと言ってます。藤田さんはみずからサナダムシを飼って(15年間で6匹)、キヨミちゃんなどと名づけてかわいがってました。

異物を排除すればするほど、身体は過剰反応を起こしてしまう。そう考えると、子どもが学校に対してアレルギーを起こしているというよりも、学校という「身体」がアレルギー的過剰反応を起こしていると言えないでしょうか。学校「身体」にとって、障害児の存在や、子どもが病気でもないのに学校を休むこと=不登校は、いわば「寄生虫」のようなものです。それが学校という「身体」から排除されてしまったことによって、学校はますます過敏になってしまってます。いじめなどで、ちょっとした差異が排除の対象になるのは、学校のアレルギー反応とも言えるでしょう。

これに対する「治療」を考えるとしたら、学校の減感作療法が必要でしょうか。すなわち、まずは年間30日ほどの欠席を問題視しないことに始まり、少しずつ学校の寛容度を上げていく。不登校を認めるというのが休むことを認めるということとするならば、それはひとつの「療法」となるでしょう。しかし、いきなり年間30日を認めさせようとしたら、アナフィラキシー・ショックを起こしてしまうかもしれませんね。教員自身が休暇を1日ずつ増やしていく「お休みタッチ」から始めることをお勧めします。(つづく)



●寄生? 共生?

不登校=寄生虫などと言うと、「不登校を寄生虫扱いするのか!」というお叱りの声がすぐさま飛んできそうです。まあ、不登校=下痢説でも同じでしょうけれど。でも、ここで考えたいのは、なぜ寄生虫がそこまで忌みきらわれてきたのか、ということです。最近は細菌への目線も変わってきましたが、これまで細菌も忌みきらわれてきました。抗生物質やら除菌スプレーやら、細菌は退治すべきものとされてきました。しかし、近年、腸内フローラと言われるように、腸内細菌は100種類100兆個もいると言われ(最近では1000種類1000兆個とも言われているようです)、そのおかげで私たちはいろんなバランスがとれて生きていられることがわかってます。自分の細胞は60兆個ぐらいのようですから、それよりも腸内細菌のほうがずっと多い。表皮常在菌なども含めて、「自分」と思っている身体も、おびただしい数の菌との共生体です。

そこに虫の1匹や2匹が加わったところで、共生さえできればいいんだと思います。ただ、寄生虫が恐ろしいのは宿主を殺してしまう場合もあることで、忌みきらわれるのもむべなるかな、というところがあるわけですが、共生できるものまで忌みきらう必要はありません(菌でも同じですね)。

自分のテリトリーは自分だけのもので、他者にはビタ一文とられたくない、というゴーツク爺みたいなことだと、しんどいです。資本主義社会は、私的所有を第一としてきました。多くの人が、自分で稼いだお金で、「自力」で生きていると思い込んでいる。そのための勤勉さが倫理になっていて、それに反すると目される人は容赦なくバッシングされる。不登校へのバッシング(怠けているなど)には、そういうところがあると思います。

そして、その行き着く果てに、いろんな問題が起きてます。でも、個人なんてものは、身体的にも精神的にも関係の束にほかなりません。ひとつひとつの細胞のなかにだって、ミトコンドリアという、もともとは別の生物が棲みついているわけです。共生のお花畑のなかで「これはワシのもんじゃあ!」とか叫んでいる、あわれな爺にはなりたくないものです。

寄生を許さないという心情は、外国人排斥のヘイトスピーチにもつながってます。あるいは、「働かざる者食うべからず」という、もともとは新約聖書の言葉をもとにレーニンが資本家を叩くために使った言葉が、ひきこもりやニートなどへのバッシングとして使われてます。寄生という言葉が忌みきらわれる背景に、共生への憎悪のようなものを感じます。

ちなみに、不登校新聞の編集長、石井志昂さんは、その昔、寄生虫Tシャツを愛用していました。きっと、共生社会を目指して誰かに寄生したいという意思表明だったのでしょう。(まだ、つづく)。

※寄生虫Tシャツは目黒寄生虫館のミュージアムショップで販売されている。オンラインショップで購入できるようだ。


●フリースクールなどが認められるとは?

フリースクールなどもまた、学校にとっての「異物」ではあるでしょう。多様な教育機会の場としてフリースクールなどを認めてほしいと法律をつくる動きもありましたが、その賛否はさておいて、不登校=寄生虫説として考えた場合、フリースクールが認められるとはどういうことになるでしょう。

先に、不登校が認められるというのは、休むことが認められることだと書きました。なぜなら、不登校とは学校を欠席することなのですから、単純に考えれば、そうなるはずです。フリースクールなどとは別問題と考えたほうが筋が通ります。

では、フリースクールなどが認められるとは、どういうことになるでしょうか。画一的に過ぎた学校制度のなかに異物として入り込むとしたら、藤田紘一郎さんがサナダムシを自身の体内に飼ったように、学校制度にパラサイトすることでしょうか。なかには、宿主を殺しかねない寄生虫と忌みきらう人もいるでしょう。その免疫反応を抑えるには、異物であっても共生できるものとして、学校身体の免疫系に慣れてもらうしかありません。少しずつ慣らす、減感作療法が必要かもしれませんね。しかし、それがフリースクールなどにとってよいことなのかはわかりません。学校制度にまったく拠らない学びや育ちを、社会で共生できるものとして認めさせていくという道筋が、そこにはないように思えるからです。


●寄生虫(異物)でありつづけること

もう一歩、踏み込んで考えてみたいと思います。異物を排除して潔癖症になると過剰反応を引き起こしてしまうというのは、学校にかぎった話ではありません。どんな集団においても、同じようなことは起きます。フリースクールや不登校の関係団体であっても然りです。たとえば、「学校に行かなくてもいい」という考えをしている人たちのなかで、「でも、学校に行かないと不利だし、学歴は必要だと思う」なんて言うと、免疫系が作動しがちです。多様な学びが必要などと言っている人のあいだでも、そういう免疫反応を見ることはめずらしくありません。それを避けるには、異論があたりまえのことになるように、減感作療法をしていくことが必要かもしれません。

あるいは、自分の考えというものを、自分のいる集団と同化させきってしまわないように、常に異物でありつづけることも肝要かもしれません。自分の考えと集団の考えが同じと思っていると、異論を唱える人を敵とみなして排除することが正義になってしまいます。それはこわいことだと私は思います。つまりはここでも、寄生虫のようなもの(異物)として、共生しつづけることが必要じゃないかということですね。

寄生虫という喩えがぴったりかどうかはわかりませんが、そう考えてみると、いろいろ見えてくるように思いました(また、免疫やアレルギーについては素人なので、理解がまちがっていたら、ご指摘ください)。この文章が過剰な免疫反応を引き起こしませんように。(了)
補足:不登校=寄生虫というのは語弊もあったかもしれません。ここで言いたかったのは、すべての人は集団に自分を同化させるのではなく、寄生虫的異物として生きるのが肝要だということです。同質度の高い集団は過敏で苦しいし、かといって、ある集団から離れて別組織をつくったところで、その集団と自分を同化させてしまうのでは、やはり苦しいだろうということです。これを雇用問題に敷衍すれば、ブラック企業とかブラックNPO問題にもなるのでしょうね。(2018.02.04補筆)

COMMENT

NAME
TITLE
MAIL(非公開)
URL
EMOJI
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
COMMENT
PASS(コメント編集に必須です)
SECRET
管理人のみ閲覧できます

不登校=寄生虫説の感想です

  • by 中村 尊
  • 2018/02/14(Wed)12:53
  • Edit
山下さん、不登校=寄生虫説、読ませていただきました。山下さんの視点はいつも面白く、考えさせられます。確かに!と思うところもあります。ただ、ちょっと「フリースクールなどが認められるとは?」のところが難しかったです。よく読み込まないと難しいなと思いました。クレイン・ハーバーの井上にも読んでもらったところ「不登校の子どもの理解が広まるのであれば、寄生虫でも下痢でも表現はかまわないと思う」との感想でした。中村としては「やっぱり、ちょっと本人たちは寄生虫という表現はイヤかも?」と苦笑いです。

「異物として共生し続けることが必要」
「異論をあたりまえのこととなる」
まさしくその通りだと思いますからこそ、
いろんな視点を提供してくださる山下さん(フォロさん)には、これからもフリネットの正会員であってほしいと思います。

風邪など、ひかれませんように!

中村尊さま

  • by 山下耕平
  • 2018/02/19(Mon)09:22
  • Edit
コメント、ありがとうございました。ほかの方からも、不登校の子どもを寄生虫と言っているようにとられて、それはどうかという意見もありました。私がここで書きたかったのは、学校が不登校(病気でもないのに学校を休むこと)を許容していないことを、寄生虫の排除になぞらえたわけですね。まだ語弊もあるかと思いましたので、下記のように、少し文章をあらためました。

……………………………………………………
学校「身体」にとって、障害児の存在や、子どもが病気でもないのに学校を休むこと=不登校は、いわば「寄生虫」のようなものです。
……………………………………………………

フリースクールのくだりを補足するとすれば、学校外の学びが学校制度として認められる道筋ができたとして、学校制度の外のまま、社会で認められる道筋はないのか、ということですね。

異論が大事だとおっしゃっていただけてうれしいですが、過剰な免疫反応を示される方も少なからずいらっしゃいますのでね……。

ご返信、遅くなりました。井上さんにもよろしくお伝えください。

プロフィール

HN:
山下耕平
性別:
男性
自己紹介:
1973年、埼玉県生まれ。大学を中退後、フリースクール「東京シューレ」スタッフを経て、『不登校新聞』創刊時(1998年)から8年間、編集長を務めた。2001年、フリースクール「フォロ」設立時より、同事務局長を務める。2006年より、同法人で18歳以上の人の居場所を始め、コーディネーターをしている(なるにわ)。2012年より関西学院大学で非常勤講師。著書に『迷子の時代を生き抜くために』(北大路書房2009)。野田彩花さんとの共著に『名前のない生きづらさ』(子どもの風出版会2017)。

拙 著


ブログ内検索

Twitter

カレンダー

05 2018/06 07
S M T W T F S
1
3 4 5 6 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
Copyright ©  -- Kohei Yamashita --  
Design by CriCri  / powered by NINJA TOOLS /  /