blog: 迷子のままに


山下耕平(やました・こうへい)
NPO法人フォロ事務局長、不登校新聞社理事、
関西学院大学非常勤講師など。
おもに、不登校、ひきこもりなどにについて書いてます。

   
カテゴリー「教育機会確保法関連」の記事一覧

「“不登校”44万人の衝撃」はフェイクニュースか

もう1カ月ほど前のことになるが、5月30日のNHKスペシャルで「“不登校”44万人の衝撃」という番組が放送された。番組には不登校新聞社も関わっていた。私は不登校新聞の元編集長で現在も理事のひとりでもあるが、この件はまったく知らなかったので驚いた。何に驚いたかと言えば、44万人という数字である。数字を誇大に盛って、「衝撃」とあおっている。フェイクニュースか、と言いたくなる。


○日本財団の調査

元になっているのは、日本財団が2018年10月にインターネットを利用して中学生を対象に行なった調査だ(「不登校傾向にある子どもの実態調査報告書」)。調査は、子どものタイプを下記のように分類している。

・不登校 :文科省定義の不登校
学校に行っていない状態が一定期間ある子ども(30日以上欠席)

・不登校 :文科省定義外の不登校
学校に行っていない状態が一定期間ある子ども(30日未満/1週間以上連続欠席など)

・教室外登校
学校の校門・保健室・校長室などには行くが、教室には行かない子ども

・部分登校
基本的には教室で過ごすが、授業に参加する時間が少ない子ども(遅刻早退が1カ月に5回以上など)

・仮面登校A:授業不参加型
基本的には教室で過ごすが、みんなとちがうことをしている子ども(月 2~3回以上、または1週間続けて)

・仮面登校B:授業参加型
基本的には教室で過ごし、みんなと同じことをしているが、心の中では学校に通いたくない学校がつらい・嫌だと感じている子ども(毎日)

・登校
学校になじんでいる


このうち、「文科省定義の不登校」は10万8999人、これに加えて33万人が「不登校傾向」だとしているが、その内訳は、「文科省定義外の不登校」が5万9921人、「教室外登校」「部分登校」「仮面登校A」をあわせて13万703人、「仮面登校B」が14万2161人となっている。

「文科省定義以外の不登校」約6万人をカウントするのはまだわかるが、33万人のうち27万人は、基本的に学校には行っている子どもたちで、とくに「仮面登校(A・B)」については、内心の問題を「不登校傾向」と言っている。NHKは、それをもって「“不登校”44万人の衝撃」だと言っているのだが、これはいかにも誇大な表現と言えるだろう。

日本財団の別の記事では「不登校傾向」を「隠れ不登校」とも表記している。そして、今回の調査で初めて明らかになったかのように報じているが、この「不登校傾向」なり「隠れ不登校」というのは、新しい問題ではない。


○30年前の調査では

同様の調査は、30年前の1989年に、中学2年生を対象に森田洋司が行なっている(「児童・生徒の問題行動とプライバタイゼーションの進行に関する総合的研究」/『不登校現象の社会学』学文社1991)。それによると、なんらかの頻度で「学校へ行くのが嫌になったことがある」と答えた生徒は全体の70.8%だった。これを森田は「登校回避感情」と呼び、「不登校への傾斜過程」としていた。そして、「登校回避感情」の拡がりは、たんに学校教育の問題に起因するのではなく、社会の私事化(プライバタイゼーション)の進行に起因すると見たのが、森田の調査だったと言えるだろう。


○ふたつの調査の共通点と、まなざしのちがい

日本財団の調査では、「不登校」と「不登校傾向」の割合は、あわせて中学生全体の約13%となっている。単純な比較はできないが、どちらも欠席には及んでいない子どもたちの「登校回避感情」を調査したという点は共通している。しかし、ふたつの調査では、その調査結果へのまなざしがちがうように思う。

日本財団の調査では、本調査に続く追跡調査で「学びたいと思える場所」を質問し、「自分の好きなことを突きつめることができる」「クラスや時間割に縛られず、自分でカリキュラムを組み立てることができる」などの回答が多かったと報告している。そして、NHKの番組放送直後から、Twitterを活用して、「#学校ムリかも」から「#ミライの学び」へというキャンペーンを始めた(6月末まで)。

森田の調査が、社会の私事化を問題視していたのに対して、日本財団の調査報告は、私事化を促進するような方向にある、と言えるだろう。そして、日本財団の調査やNHKの報道と歩調を合わせるように、教育機会確保法の見直しでは個別学習計画案が再浮上し、政府の規制改革推進会議では、ICTを活用した義務教育における通信制の導入が議論されている。経産省では未来の教室実証事業が推進されており、クラスジャパンプロジェクトでは、小中学園を開校すると発表された。

日本財団の調査報告、NHKの「“不登校”44万人の衝撃」という報道には、義務教育民営化への誘導を感じざるを得ない。フェイクニュースでなければ、ミスリードニュースだと言っておきたい。


学校への疎外、学校からの疎外

教育機会確保法をはじめとして、最近の不登校やフリースクールをめぐる情勢に、なんでこんなに違和感を覚えるのかを考えたとき、そこには、「疎外」の問題があるように思う。

「疎外」だなんて、いかにもいかめしい言葉だと思うが、ちょっとばかり、おつきあいいただきたい。

社会学者の見田宗介は、「二重の疎外」ということを言っていた。いわく、「貨幣への疎外」があって、「貨幣からの疎外」が問題となる。どういうことか。

「貨幣への疎外」というのは、お金でしか生活ができなくなることだ。いまや、私たちは衣・食・住すべてを、お金でまかなっている。ガンジーみたいに糸車をまわして糸を繰って衣服を織る人なんて、ほとんどいない。おおかたの人は、日々、着るものも食べるものも住む場所も、お金で買っている。水道光熱費もしかり。井戸から水をくみ上げたり、裏山から薪を切り出してくる人はほとんどいない。生活というものが、すべて消費になっている。そうすると、そのためのお金を稼ぐことが必要になり、働くこと=お金を稼ぐことになる。つまりは、自分も労働力を売って生活するほかなくなる。これが「貨幣への疎外」ということだろう。

そして、お金でしか生活できない世界では、「貨幣からの疎外」=お金がないことが問題になる。お金がないことが、そのまま生活できないことにつながってしまう。「貨幣への疎外」があって、「貨幣からの疎外」が問題となる。それが「二重の疎外」ということだろう。

これを学校にあてはめても、同じことが言える。つまり、「学校への疎外」があって、「学校からの疎外」が問題となる。学校へ行かないと就職が困難になってしまう世界(=「学校への疎外」)では、不登校(=「学校からの疎外」)が問題となる。不登校が問題とされてきたのは、個々人の問題以前に、そもそも人びとが学校へと疎外されてしまっているからだと言える。

不登校から問われてきたのは、「学校からの疎外」の問題だけではなく、そもそもの「学校への疎外」の問題でもあったのではないだろうか。しかし、多くの場合、そもそもの「学校への疎外」は意識すらされていない。お金を稼がないと生きていけなくなっていること(貨幣への疎外)が、おかしいとは思えなくなっているのと同じように。

それでも、たとえばイヴァン・イリイチが「脱学校」とか言っていたのは、「学校への疎外」を問題にしていたように思う。かつての不登校運動も、「学校への疎外」そのものを問うていたところはあったように思う。

しかし、いまや「学校への疎外」は自明のこととされ、その「学校」を多様化することだけが求められている。もう少し正確に言うなら、「教育への疎外」と言ったほうがいいかもしれない。いかに教育が多様化されようとも、「教育への疎外」の苦しさの根は変わらない。

そして、その苦しさの根が置き去りにされているがために、その置き去りにされたものからは、より大きなかたちでしっぺ返しを受けているように思えてならない……。

「見える化」より「見えない化」を

子どもの居場所について、印象的なエピソードがある。神奈川県川崎市で「たまりば」を開いてきた西野博之さんの話だ。1991年、西野さんたちは6畳と4畳半のアパートを借りて「たまりば」を始める。そのアパートを借りるのもたいへんで、やっとの思いで確保した自分たちのスペースだったのだが、子どもたちは、初日から天井裏に登って掃除を始めて、掃除が終わると、「ここが私たちの居場所よ」と言ったそうだ。その言葉に、西野さんはたいへんショックを受けたという。

 彼女たちは言葉ではそうは言わなかったけど、体を張って「あんたも親や先生と同じだ」と言っていたんだと思うんです。不登校しているあいだ、勉強が遅れないように勉強しようとか、いろんな体験活動もしたほうがいいとか、体も動かしたほうがいいとか、人とコミュニケーションできるスキルを身につけたほうがいいとか、学校に行かなくなって欠けてしまう部分を何とかしてあげなきゃいけないと思ってるんじゃないかって。いいひとヅラして子どもたちに「ゆっくり休んだらいいよ」って言いながら、それだけじゃいけない、何かしてあげなきゃいけないという空気が、僕の毛穴からにじみ出ていたんだろうと思うんです。だから子どもたちは立てこもった。「大人が勝手によかれと思って、いろいろ大きなお世話を焼かないでよ。私たちはホッとしたいんだ」というメッセージが込められていたんじゃないかと思います。
(略)
 それからやっと、僕は子どもたちと話し合うことができた。「わかった。よけいなお世話をできるだけ焼かないようにする。君たちがしたいように過ごしたらいい。したくないことは何もしなくていいよ」と取り決めて、僕らはスタートしました。
(『居場所とスクールソーシャルワーク』子どもの風出版会2018)
子どもの側に立つというのは、こういうことだったのではないか。子どもとともに場をつくるとは、こういうことだったのではないか。私のささやかな経験に照らしても、そう思う。ただ、正直に言えば、その後、現在にいたるまで、こういうことはどんどん難しくなってきているように感じる。

その背景には、いろいろなことがあるのだと思う。ただ、ひとつ言うとすれば、「天井裏」のような場が子どもの世界からどんどん奪われていて、それゆえに子どもが苦しくなっているのは、たしかなことのように思う。大人の目が届かない、しかし、大人が信頼してまかせてくれている領域。いまや、「見守り」という名のもとに、子どもにGPSをつけるのがあたりまえのようになり、何かあれば親にメールが届く。子どもどうしが勝手に遊べる場所はどんどんなくなって、監視カメラやら何やら、大人のまなざしから逃げることができなくなってしまっている。これほど息の詰まることがあるだろうか。

児童精神科医のウィニコットは、「子どもは誰かといっしょのとき、ひとりになれる」と言ったそうだ。そばにはいる、しかし、子どもが見えないところにいても信頼する。そういう安心感が、大人からも子どもからも奪われている。


●学校と距離をとっても

不登校に即して考えても、同じことが言える。十数年前から、学校を長期欠席してもICTを使って勉強をすれば出席扱いされることになった。くわえて、いまや多様な教育機会という名のもと、AIを使って学習ログを蓄積するだの、コミュニケーションボットとの会話で生活リズムや趣味嗜好まで把握するだの、子どもたちの言動が、どこまでも「見える化」されようとしている。これでは、学校と物理的に距離をとったところで、「学校」から逃がれられなくなってしまう。かえって教育評価のまなざしは細分化され、家であろうがどこであろうが、くまなく入り込んでくる。あまりの悪夢に、私のようなおじさんはゲロが出そうなのだが、それは「昔はよかった」的な、中年のぼやきでしかないのだろうか? なんだかそんな気もするのだが、それでも、いまの子どもの苦しさには、常にまなざされていることの苦しさがあるように思えてならない。その苦しさが、あたりまえのことになりすぎているのではないか?

子どもにとっては、「見える化」ではなく、「見えない化」こそ大事なのではないか。「見える化」は、毛穴から「してあげなきゃ」オーラがにじみ出た大人(別名「支援臭」漂う大人)を喜ばせるだけだ。見えなくても、子どもを信頼する度量を持とう。たとえ中年のぼやきであっても、そう言いたい。

不登校の理由の利用?

不登校の理由について、文科省の調査とNHKの調査では、大きな開きがあると報じられた(NHK2019年5月27日不登校新聞507号)。

詳細は上記リンク先の記事を参照していただくとして、結論だけ言うと、文科省が行なっている調査は教員が回答しているもので、不登校の要因を本人や家庭状況に求めているのに対し、NHKの調査は中学生本人が回答したもので、教員との関係や校則、部活、いじめなど、学校状況についての回答が多いとのことだった。

文科省の調査に問題があることは、以前から問題が指摘されていたことで、NHKの調査は母数が少ないとはいえ(378人)、注目すべきものだろう。


●日本財団の調査

もうひとつ、日本財団が昨年12月に発表した調査がある(「不登校傾向にある子どもの実態調査」)。こちらも、子ども本人に調査したもので、そのなかに「現中学生に聞いた中学校に行きたくない理由」という項目がある。それによると、不登校(30日以上の長期欠席)の子どもたちの中学校に行きたくない理由のトップ3は、1位「朝、起きられない」(59.5%)、2位「疲れる」(58.2%)、3位「学校に行こうとすると、体調が悪くなる」(52.9%)だった。調査の母数は6500人(有効回答6450人)で、NHKの調査より数はかなり多い。

調査報告では、「身体症状以外の要因では、すべての群で学業に関する理由が見られた」とまとめられ、「学びたいと思う環境」の項目につなげて報告されている。しかし、トップ3は身体症状になっているのだ。その後、日本財団はTwitterを活用して「#学校ムリかも」から「#ミライの学び」へというキャンペーンを行なっているが、ここには、どうも誘導があるように感じる。


●聞く側の耳の問題

不登校の要因について、学校状況をきちんと問わなければならないのはたしかだろう。そのためには、教員が回答している調査をもとにするのではなく、子ども本人に聞いた結果から考える必要はある。しかし、そもそも、不登校の理由を聞くということ自体、本来は問い直されなければならないことだ。

経験則から言えば、多くの場合、不登校の理由なんて、言葉では説明しにくいものだ。頭よりも先に身体が反応して、とにかく「学校ムリ」となってしまう。そういう意味では、日本財団の調査は、私の経験則にも符合する。理由が言葉になるとしたら、それは渦中のときではなく、時間をかけて整理されてからのことだろう。

不登校の理由を聞くとしても、そこで問われるのは、聞く側の耳のあり方だ。学校にもどるべきだというかまえで聞くのが問題なのはもちろんだが、別の意図であっても、最初から持って行きたい方向があって聞くのであれば、それも問題にちがいない。


●義務教育民営化への誘導?

NHKの調査、日本財団の調査、Twitterでのキャンペーン(「#学校ムリかも」から「#ミライの学び」へ)、不登校新聞の報道、NHKの報道(NHKスペシャル「“不登校”44万人の衝撃」)は、相互に連携し、ひとつながりになっている。そこに、子どもの声を素直に聞き、受けとめるというよりも、ある方向に持って行きたいという意図を感じるのは私だけだろうか?

一方で、教育機会確保法の見直しでは個別学習計画案が再浮上し、政府の規制改革推進会議では、ICTを活用した義務教育における通信制の導入が議論されている(NHK2019年5月23日)。経産省では未来の教室実証事業が推進されており、クラスジャパンプロジェクトでは、小中学園を開校すると発表された。どうにも、キナくさいと言わざるを得ない。

これまで、教員が一方的に不登校の要因を回答してきたのが問題なのはたしかだが、子どもに理由を聞いたところで、それが義務教育民営化の方向へ政策を誘導するためであるとすれば、さらに問題は大きく、不登校の子どもたちの声を利用していると言える。警鐘を鳴らしたい。


選択肢ができればよいのか?

フリースクール界隈では、よく「多様な学び」と言われるけれども、そもそも「多様な学び」とは何だろう? 私なりの解釈で言うと、学びというのは学校という上から与えられる教育にかぎるものではなく、子どもの自主性や自発性にもとづいて、もっと多様なあり方にひらかれるべきだ、ということではないかと思う。少なくとも、私はそういうものだろうと思ってきた。

しかし、実際問題としては、さまざまな制約もあって、自分たちのできてきたことは不充分きわまりない。とくに、お金や設備などは不充分で、それを何とかするためにも、公的な資金が必要だというのが、教育機会確保法を推進してきた人たちの思いのひとつだろう。

その思いはわかる。しかし、それは教育機会の選択肢のひとつとなれば、解決するのだろうか? 仮に公的支出が出ることになったとして、その選択肢を選ぶのは保護者だ。さまざまな教育サービスが登場し、その競合にかけられていくうちに、消費者ニーズに応え、選ばれるための価値を高めることに躍起になって、気づけば教育サービスの選択肢のひとつになりさがってしまう、なんてことはないだろうか? しかも、そういう競合となれば、結局のところ、資本力のあるところにはかなわないだろう。

さらに言えば、選ぶ主体は保護者であって、子どもではない。少なくとも、サイフのヒモを握っているのは保護者であるから、保護者の意向を無視して、子どもが選ぶことはできない。そして、保護者のほうも、いっしょに場をつくっていくという意識ではなく、消費者として教育サービスを買うという意識になってしまうのではないか。

私が関わってきたフリースクールでは、小さくとも、手づくりで場をつむいできたという実感がある。お金も設備も不足するなかで、できることを工夫し、智恵を出し合う。20年以上前、東京シューレでスタッフをしていたときも、そうだったように思う。それは、ささやかながら、教育サービスを選んで買うのとはちがった、多様なあり方にひらかれた営みだったと言いたい。

もちろん、私たちにも矛盾や葛藤はある。さまざまな意味で、ともに場をつくることは難しくなってきているようにも感じる。とくに、お金の問題は大きい。それでも、そうした営みをあきらめたくはない。どんなかたちになるにせよ、小さくとも、手づくりの場は、営んでいきたい。それは、教育サービスの選択肢になるのとは異なる、多様性にひらかれた、わずかな可能性だと思う。ねがいを込めて。

不登校と選択をめぐる問題――『名前のない生きづらさ』より

不登校と選択をめぐる問題について、『名前のない生きづらさ』第2章に書いたものを抜粋しておきたい。

  *  *  *

・不登校の当事者運動のなかでは、学校に行かないことを、フリースクールやホームエデュケーションに置き換えることで、学校に対置しうる教育(=選択できるもの)として位置づけようとしてきたと言える。ここに、問題がねじれてしまう、最大の要因があるように思う。

・不登校という名前は、それ以前に比べれば淡白になったとは言え、やはり、そこには学校に行かないことを異常視するような、名づける側のまなざしがある。しかし、それを周囲がフリースクールやホームエデュケーションなどの名前に置き換えて、世間に理解しやすいストーリーに組み替えてしまうことも、本人不在になってしまうと言えるだろう。

・子どもが学校に対してノーを示していることに対し、それを親や周囲が選択の問題としてしまう。そこにねじれがある。子どもにとって、不登校は選択の問題ではない。不登校を選択の問題としてしまうと、現実からズレてしまう。

・私自身の経験で言えば、学校に行かなくなった子ども(親ではなく)がまず求めるのは「居場所」だろうと感じてきた。それは逃げ場とも言えるし避難所とも言える。それを家に求める場合もあれば、家の外に求める場合もあるが、いずれにしても「選択」というのとは、ちょっとちがう。逃げ場や避難所としてのフリースクールが、教育の選択肢となってしまったら、それは子どもの逃げ場を失うことにもなる。

・「居場所」と言われてきたさまざまな営みは、不登校やひきこもりをはじめ、この商品社会でやっていけないと感じた人たちが、おのずと培ってきた土壌だ。それぞれは小さくとも、それは、人が生きていく足場となりうる。私はそう感じてきた。だから、そこに商品化の視線が及ぶことに、抵抗を感じるのだ。

・商品化社会は、商品にならないものを毛嫌いする。すべてのものを商品価値に一元化しようとする。ミヒャエル・エンデの『モモ』でいう、“灰色”の世界だ。数値目標、成果主義、自己評価……そういったものが、気づかぬうちに、あらゆる領域に入り込んでいる。NPOだとか、フリースクールなども例外ではない。この人までそんなこと言うか、というようなことも増えてきた。私たちが大事にしたいと思ってきたことは、「ムダ」なことだったり、「そうは言っても……」という言葉のなかで、どんどん切りつめられている。

・しかも、“灰色”の論理は、「個性」「多様性」「選択」「自由」といった言葉をまとって、一見よさそうに見える装いをしているから、やっかいだ。でも、ダマされてはいけない。“灰色”と闘うには“灰色”がムダだというものこそを大事にして、そこから共同性を培っていくことが必要で、それは“灰色”からしたら「負け組」とされる人びとのあいだにあるのだ、きっと。


「逃げる」と「選ぶ」

不登校をめぐって、「つらかったら、学校から逃げてもいい」「学校外にも学ぶ場はあるから選んでいい」ということが、よくメディアで流布されるようになった。しかし、「逃げる」と「選ぶ」は筋のちがう話で、どうも混同があるように思えてならない。

「逃げる」というと、ネガティブな行動に見られがちなので、「不登校は逃げじゃなくて選択なんだ」と言いたくなる気持ちはわかる。けれども、逃げることはネガティブであっても必要なことで、積極的に学校外で学ぶという「選択」でなければ逃げることさえできないということになれば、かえって逃げ道をふさぐことにさえなりかねない。

何も積極的な意味などなくても、ときに逃げることは必要だ。逃げることを否定視するまなざしこそ、問い返さなければならない。

また、不登校をしている人のなかには、一時的には逃げても、学校外で学びたいわけではなくて、学校にもどりたいという気持ちの人も数多くいる。いずれにしても「学校しかない」という見方は相対化される必要があるにちがいないが、そういう気持ちを「学校にこだわっている」という見方で切り捨ててしまってはいけないだろう。

私も、学校以外に多様な学び場は必要だと思うが、それと不登校とは、重なる部分はあっても筋のちがう話だ。それを混同して語るとき、「逃げる」ことは、かえって抑圧されてしまうのではないか。そう思えてならない。


>関連記事

「行けない」と「行かない」

不登校は、「学校に行かない・行けない」と表されることがある。自分の意志で「行かない」のか、それとも「行けない」のか、どちらとも言いがたく、並記するような表し方をしたりする。

この「行かない」と「行けない」では、世間のまなざしはだいぶちがうように思う。いじめや体罰などがあって不登校になった場合、「死にたいくらいつらいのだったら、学校から逃げてもいい」ということが、近年はよく言われるようになった。

しかし、「なんとなく行きたくない」とか「自分でもよくわからないんだけど行けない」ということだと、なかなか認めらず、結局は「死にたいくらい」つらくなるまでがんばらないと認められないというのが現状かもしれない。

あるいは、学校に価値を見いだせず、みずから行かないということだったりすると、世間から強い反発を買ってしまう。「行けない」は認められても、「行かない」は認めがたい。そこには、とても根の深い、不登校への否定のまなざしがあるのではないだろうか。

たとえば、シングルマザーに対する世間のまなざしも、未婚・非婚、離別、死別では大きく異なる。死別だったら「たいへんね」と同情されるが、離別だったら「あなたにも問題があったのでは?」「もう少しガマンできたのでは?」となるし、未婚・非婚だったら、「好き勝手にひとりで子どもを生んだのだから」と、自己責任を問われることになる。たぶん、そこにあるのは「自分たちはこんなにガマンしているのに、好き勝手しているヤツは許せない」という心情だろう。

不登校の場合も、やむなく「行けない」のであれば同情されるが、「行かない」のは好き勝手にやっているのだからと、自己責任を問われてしまう。その場合、認められるためには、ただ「行かない」のではなく、積極的に学校外でもこんなに学んでいる、という成果を示さないといけなくなってしまう。

フリースクールなどの関係者が、「不登校」を「学校外の学び」に置き換え、選択肢にしようとしているのには、そのあたりの問題が背景にあるように思う。しかし、「不登校」と「学校外の学び」は同じものではない。

不登校が、同情から認められるのはイヤだという気持ちはわかる。しかし、学校外で学んでいるのだからと、学校外の成果で認めさせようというのも苦しいことだと私は思う。それでは、不登校を否定視するまなざしはそのままに、かたちを変えてがんばるほかなくなる。

不登校にかぎらないが、そもそも多くの人ががんばりすぎているから、「自分はこんなにがんばっているのに、がんばってないヤツは許せない」という心情になってしまうのではないか。であれば、もっと休むこと、サボること、怠けることの必要性を認めさせないといけない。

学校を休むこと、行かないことは、同情からでも、学校外の学びの成果からでもなく、当然の権利として、すべての子どもに認められるものにしないといけないと私は思う。

個別学習計画案の撤回を要望

個別学習計画案の撤回を求めて、要望書を立法チームにいた議員8名(下記)に送りました。
意見のある方は、送ってみてはいかがでしょう。以前に聞いたところでは、ファックスが一番届きやすいそうなので、ファックスの連絡先を紹介しておきます。


議員 政党 FAX
河村建夫 自民 03-3502-5085
馳 浩 自民 03-3508-3609
浮島智子 公明 03-3508-3740
笠 浩史 未来日本 03-3508-7120
神本美恵子 立憲民主 03-3508-0010
牧義夫 国民民主 03-3508-3258
畑野君枝 共産 03-3508-3707
吉川元 社民 03-3508-3856

*  *  *

個別学習計画案の撤回を求めます

2019年5月27日 山下耕平(NPO法人フォロ事務局長)

 教育機会確保法の成立3年後の見直しにあたって、馳浩議員より「個別学習計画」を盛り込むことが提案されたとうかがいました。ご承知の通り、この案はもっとも論議を呼んだ部分であり、反対意見も強かったものです。私自身、立法チームのヒアリングでは強い懸念を示してまいりました。新しい案を拝見しても懸念すべき点はまったく変わりませんが、あらためて意見申し上げます。


1.保護者と子どもを追いつめることになる

 個別学習計画は、保護者に学習の場の選択権をゆだねていますが、子どもと保護者のニーズは一致するとはかぎりません。とくに、子どもが不登校になった場合、保護者は勉強をさせたがりますが、子どもは何より休むことを求めていることが多くあります。また、保護者も、子どもが不登校になったことによって周囲から責められることも多く、不安や焦りから子どもを何とかしようと追いつめられがちです。個別学習計画は、いかに任意とはいえ、保護者を追い立て、子どもを追いつめるものになると懸念します。


2.子どもの逃げ場を奪うことへの懸念

 多くの子どもたちが不登校となる背景に、子どもたちが教育評価的なまなざしでのみ自分のことを見られることに疲弊しているという問題があるように思います。不登校は、そのまなざしからの撤退だとも言えます。フリースクールなどの役割は、その撤退を保障するという面があり、いわば「居場所」としての機能を果たしてきたところがあります。個別学習計画により、教育評価の視線が細分化し強化されることで、かえって子どもは逃げ場を失ってしまうことを強く懸念します。

3.義務教育民営化への懸念

 個別学習計画は、義務教育そのものを民営化していくことにつながるものと思われます。民営化といっても、立法チームでヒアリングされたようなNPOのフリースクール関係者などではなく、営利企業が教育市場として義務教育を商品化していくことになれば、格差拡大など、さまざまな問題が生じることが懸念されます。


 個別学習計画は、多くの不登校の児童生徒を追いつめるものになる。長年、不登校に関わってきた立場から、そう断じぜざるを得ません。撤回を求めます。

教育機会多様化神話

教育機会確保法だとか個別学習計画というのは、いまの社会を前提として、そこに適応させるための手段を多様化しようという話だ。そういう意味では、「学校に行かなくても社会ではやっていける」という言説とは相性がよいのだろう。

しかし、私は「学校に行かなくても社会ではやっていける」という言い方はやめるべきだと言ってきた。なぜなら、それは学校だけを問うて、社会のあり方を問わないからだ。

不登校やひきこもりを否定視する価値観と対峙しないまま、方法論としてのみ、教育機会を多様化させるというのでは、そのツケはどこかでまわってくるだろう。原発安全神話ではないが、教育機会多様化神話とでも言っておこう。

かつて、学校を絶対視する風潮は「学校信仰」と言われていたが、いまは「学校信仰」が揺らいだ代わりに、別の神話が信仰されていると言ってもいい。

かつてと比べると、「教育機会多様化神話」は世間に流通するようにはなったが、不登校という問いに立つならば、この社会でやっていけない側に立ち続け、やっていけない社会のあり方を問い直していくことが必要だろう。どんなに苦しくなっても、そこに立っていきたい。

プロフィール

HN:
山下耕平
性別:
男性
自己紹介:
1973年、埼玉県生まれ。大学を中退後、フリースクール「東京シューレ」スタッフを経て、『不登校新聞』創刊時(1998年)から8年間、編集長を務めた。2001年、フリースクール「フォロ」設立時より、同事務局長を務める。2006年より、同法人で18歳以上の人の居場所を始め、コーディネーターをしている(なるにわ)。2012年より関西学院大学で非常勤講師。著書に『迷子の時代を生き抜くために』(北大路書房2009)。野田彩花さんとの共著に『名前のない生きづらさ』(子どもの風出版会2017)。写真は、内池秀人さん撮影。

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