blog 迷子のままに:

山下耕平(やました・こうへい)
NPO法人フォロ事務局長、不登校新聞社理事など。

不登校、ひきこもりなどを中心に、書いてます。
一部は「なるにわブログ」から引き継いでます。

   
カテゴリー「雑記」の記事一覧

オルタナティブな「選択」が揺らぐとき

このところ、関わりのあった人を見送ることが立て続いた。人が亡くなるということは、それ自体は必然ではあるものの、その人の亡くなり方や、それまでの生き方によって、こちら側には、いろいろな思いが残される。そのなかのひとつを、少し書いてみたい。

ある知人は、長年、ガンとつきあってこられていた。甲田療法などで、玄米食を中心とした生活をして、西洋医学に頼らずに、十数年、ガンと共存してこられていたのだ。それを誇りにしてもおられたように思う。しかし、ガンが進行し、緩和ケア病棟に入られて、私たちがお見舞いに行った際、その方は「抗ガン治療を受けておけばよかったかもしれない」と、つぶやかれた。私は返す言葉もなく、ただ、うなずくほかなかったのだが、そういう揺れる気持ちは、けっして抑圧してはいけないと思った。誰だって、死に直面すれば揺れるだろうし、そこまでの局面ではなくとも、自分が正しいと思って選んだ道が、ほんとうに正しかったのか、揺れることはあるように思う。

たとえば、学校に行かなくなって、フリースクールやオルタナティブ教育を選んだという場合でも、同じようなことはあるだろう。いまの学校のあり方に問題意識をもって、別のあり方を模索する。しかし、何か厳しい局面に立ち会ったとき、ほんとうにこれでよかったのかと迷ったり、揺れたりすることはある。だからといって、それがまちがいだったという単純な話ではないけれども、そこで揺れる気持ちは、抑圧してはいけないと思う。その抑圧は、学校に行かないことは悪いことだという抑圧よりも、さらに深い抑圧になってしまうように思うからだ。

不登校というのは、拒否反応のようなもので、「選択」ではない。病気というのも、けっして「選択」ではないだろう。しかし、フリースクールやオルタナティブ教育、あるいは代替医療などは、その人の「選択」だと言えるだろう(親が選んだのであって、子ども本人が選んだわけではないということは多々あるが)。あるいは、低学歴のまま生きていくとか、医療に頼らずに生きていくと決断するのも、ひとつの「選択」と言えるかもしれない。しかし、その「選択」の結果は、自己責任として問われることにもなる。だから、何かうまくいかない状況に直面したとき、自分の選択はこれでよかったのかと思い悩むことにもなる。しかし、そもそも人が生きているというのは、迷ったり悩んだり、葛藤したり、試行錯誤し続けるもので、「選択」だって、その過程のひとつなのだと思う。確固たる「選択」なんて、はたして、どれほどあるだろうか?

それが何であれ、オルタナティブな模索をしている人たちは、揺らぎを含んでいなければならないと、私は思う。それを抑圧してしまうと、カルトになってしまう。悩んだり葛藤のできない社会ほど、怖いものはない。もっと言えば、社会全体が、オルタナティブな模索も含めた、揺らぎを含んでいなければならないだろう。何か失敗があれば、「それ見たことか」と自己責任に帰すような社会は、懐の狭い社会だ。オルタナティブな模索は、個人の選択肢を増やすというよりも、社会の懐を拡げていくものであるべきなのかもしれない。そして、それは個人の力だけでできることではなく、人とのつながりのなかでしかできないことだ。迷いながら模索を続けているひとりとして、そんなことを思う。

仮説「蘇我馬子は生きている」

不登校新聞の連載「仮説なんですが」に、仮説を書いた(483号/2018.06.01)。少し前に「不登校=寄生虫説」という仮説を投稿したのだが、語弊があるというので書き足していったら規定の3倍ほどの分量になってしまったのでボツとして、あらためて別の仮説を投稿させていただいた。今回の仮説は「蘇我馬子は生きている」説。編集部の了解を得て、全文を転載させていただく。
奈良県明日香村にある石舞台古墳は、蘇我馬子の墓と言われている。巨大な古墳だったようだが、盛土は取り去られ、石室だけがむきだしになって残っている。古代日本の礎をつくったのは蘇我氏らしいが、「大化の改新」でクーデターを起こした天皇家によって蘇我氏は殺害され、悪者にされたあげく、蘇我氏の業績の数々は、すべて「聖徳太子」という架空のスーパースターの功績にされてしまった。この説については、いまでも教科書の記述をどうするかなど論争があるのだが、ほんとうだとすれば、勝てば官軍で、負けた側の声は、葬り去られたうえに、収奪されてしまったことになる。

歴史は、そういうことのくり返しなのだろう。昔から「改ざん問題」はあるのだ。しかし、勝った側が安泰かと言えば、うしろめたさは常にある。だから、たとえば藤原氏なんかも、政敵として左遷した菅原道真を神さまにして祀ったりしてきた。負けた側のうめき、もっと言えば、民衆のうめきみたいなものを、勝った側=権力は常におそれている。

権力争いの場だけではない。あらゆる領域で、そういうことは起きているだろう。たとえば社会運動なんかにおいても、その初期においては、古代豪族のせめぎ合いや、戦国時代の群雄割拠のごとく、いろんな「声」がせめぎ合う。ところが、だんだん力を持つ人たちが出てきて、その人たちの語るストーリーに「声」は回収されてしまう。負けた側の「声」は、なかったことにされるだけではなく、都合よく回収されて収奪されてしまうのだ。

不登校の歴史においても、同じことはあるのではないだろうか。さまざまの、負けてしまった「声」たち。表には出てこない、埋もれてしまった「声」たち。でも、そういう「声」は、時間を経ても、埋もれつつも、けっして消えることなく響き続けているのだと思う。

勝った側のストーリーだけが「声」だと思いたい人には、そういう「声」はノイズでしかない。だから、ノイズリダクションをかけて、なかったことにしてしまう。でも、ストーリーに回収されないノイズ、うめき、さまざまな「声」は、いつか物事を動かす力になる。必要なのは、そこに耳を傾け続けることだ。そういう「耳」は、本紙にも求められていると、私は思う。


石舞台古墳(奈良県明日香村)


また、先日、不登校新聞の20周年集会が開かれた。私も初代編集長として参加する予定だったのだが、諸事情で参加できなくなったので、メッセージを送って、読んでいただいた。その一部も転載しておきたい。

メディアとしての不登校新聞にとって、批判は欠かせないものです。メディアが批判精神を失ったら、ちょうちん記事しか書けない御用新聞になり下がってしまいます。そして、不登校から学校を問い、社会を問うということは、一方では、自分たちが常に問われ続けなければならないということでもあります。たとえば、フリースクールであろうと、親の会であろうと、不登校にかかわる人たちは、不登校から深く問われるものがあると私は思っています。自分たちを正しい側に置いて、相手だけを問うというわけにはいかないのではないでしょうか。

現在の編集長、石井志昂さんは、「子どものことは子どもに聞くべきだ」と言います。それは、その通りだと思います。しかし、あたりまえのことですが、聞く側の耳のありようによって、子どもが語ることはおのずと変わってきます。たとえば、「学校に行くべきだ」と、コワモテならぬコワミミでいる人に、子どもが何を語れるでしょうか。同じように、それがフリースクールだったり、ホームエデュケーションだったりしても、「これが正解」という固定した耳で聴くのであれば、子どもはそれに合わせたことしか語れないでしょう。虚心坦懐に、子どもの声を聴くには、耳の痛いことにこそ、耳を傾けなければならないのだと、私は思います。そういう耳を失ってしまったら、不登校新聞はワンパターン化した、テンプレート化した語りを再生産するだけの御用新聞になってしまうことでしょう。また、ときには読者にとって耳が痛いことであろうと、臆せずに報じる姿勢が必要だと思います。読者のニーズは大事ですが、読者に媚びる新聞であってはならないと思います。


まあ、口やかましく書いているのは、不登校新聞にもテンプレ化してしまう危険性が常にあるからなのだが、一方で、不登校新聞には「正解」に回収されない「声」もさまざまに載っている。たとえば、直近の記事では、観際メルさんの連載「ただいま別室登校中!」、水口真衣さんの手記「私の“解説”はもういらない」、露野美佳さんの寄稿「当事者性のアピール合戦はもううんざり」など。こういう記事が載っているかぎり、不登校新聞は大丈夫だと思うし、そこに私は希望を持っている。

フィルターに濾過されてしまったものは

不登校新聞が創刊20周年を迎えた。そのことについて書くべきことは不登校新聞の記事(481号)に書いたので、よかったら読んでいただくとして、20年前のことを思い出していて、こういうことも忘れられてしまうから、少し書いておいたほうがよいかなと思ったことがある。

印刷所のことだ。

学生時代(92~95年)のことから書くと、学生新聞をつくっていたとき、ふたつの印刷所を利用していて、そのうちひとつは活版印刷だった。大学のそばにあった印刷所で、おじさんが真っ黒になりながら、ひとつひとつ、鉛の活字を拾っていた。校正で赤をたくさん入れたりすると、「いまからは勘弁してよ」と言われたりして、入稿前に、なるべく校正が少ないようにしないといけなかった。

もうひとつの印刷所は、不登校新聞を始めたころと同じシステムで、写研という会社のシステムを使っていた。まず、手書きかワープロの原稿を入稿して、印刷所の人がそれを文字入力して(当時はワープロでもデータ入稿はなかった)棒ゲラというゲラにしてくれる(新聞の1段の状態)。そこで初校。これが記事本文。

同時並行で、写真は写真製版に、見出しは写植の職人さんに打ち出してもらう。すべては伝票を使って指定する。見出しは、書体や大きさ、地紋などを指定。その際、倍尺というものさしみたいなので測って、入る文字数を計算する。写真製版の指定では、トレーシングペーパーでトリミングの位置を指定して、拡大・縮小・原寸とかを指定する。大きさは、やはり倍尺で指定(ちなみに、1倍は活字1マス分の大きさのことで、それが基本単位になっていた)。

 倍尺、地紋帳、テープレコーダー……


そうやって、校正したり指定したものが、それぞれ出てくる。棒ゲラ、写真、見出し。それらを今度は別の職人さんが割付用紙の指定に沿って、組版して「大ゲラ」にしてくれるのだ。大ゲラになったものを、2~3回校正して、校了したら、その版をフィルムに撮って、輪転機にかけられて印刷される(下版)。

下版するまでの作業は膨大量だった。気むずかしい職人さんたちとコミュニケーションをしないと作業が進まなかったし、「指定がわかんねえよ」とか、怒られたことも多々あった。印刷所には「進行さん」という統括する人がいて、その人を介しながら、それぞれの作業工程がまとまって、新聞ができていった。不登校新聞で最初に使っていた印刷所の進行さんは、寅さんに似ているパンチパーマの小川さんという人だった。

そして印刷所には、いろんな新聞の人が来ていた。冷凍食品新聞とか、新文化とか、防衛新聞とか。自分たちだけではないから、順番を待たないといけない。印刷所の校正室は人がいっぱいで、当時だとタバコを吸う人が多いから、いつも部屋は煙たかった(私も吸っていたのだが)。学生新聞の経験しかなかった私の編集技術は未熟で、それを見かねた、ほかの新聞社の人たちが、待ち時間に、いろんなことを教えてくれた。そして、携帯電話も持ってなかったから、連絡をとるときは、据え置きの公衆電話でかけないとならず、その電話機はテレフォンカードも使えなかったから、10円玉に両替してもらってかけていた。

新聞の印刷所は、DTPが普及するなかでバタバタとつぶれていった。不登校新聞も創刊翌年の99年からはDTPに移行した。たくさんの職人さんたちと進めていた煩雑な作業は、パソコン1台でできるようになった。DTPでは、自分のイメージ通りに編集ができるし、めんどうなやりとりも必要なく、仕上がりもきれいだ。何より印刷代が劇的に安くなった。でも、それはそれだけ人の仕事がなくなったということでもある。そして、職人さんたちは、みんないなくなってしまった。

私個人の経験だけで言うと、95年には、まだ活版印刷も使っていたのが、99年にはDTPに移行したので、たった4年のあいだに劇的に変化したことになる。そして、その変化は地続きのものというよりも、何かそこにフィルターがあるような感じがしている。めんどうなものや猥雑なものが、そこできれいに濾過されてしまうようなフィルター。DTP以前の世界にあった息吹みたいなものは、みんなフィルターに濾過されてしまった。

それは印刷の世界だけの話だけではなくて、あちこちで起きてきたことにちがいない。そして、そのフィルター感みたいなものと生きづらさみたいなものは、どこかつながっているような気もする。もちろん、過去がよかったわけではないし、フィルターの向こう側の世界は、ノスタルジーでしかないのだろうけれど。

不登校とは直接関係ないけれども、不登校新聞20周年を機に、こういうことも書きとめておきたかった。

クラスジャパンプロジェクト、多様な教育機会、灰色……

いまの社会では、あらゆるものが商品になっていて、大人も子どもも、そして教育も、商品になっているんだなと思う。少しでも高く売れるために子どもは必死に勉強させられ、学校や教育機関は、そのサービスを買ってもらうために必死になっている。教育は、子どもを労働市場で高く売れる商品に仕立て上げるためのサービス商品になっている。

不登校というのは、大づかみに言えば、そういう状況に対するノーサインであり、そのノーサインを受けとめる場として、居場所やフリースクールはあったのだと私は思う。

しかし、この20年ほどのあいだに、こぼれた人にもチャンスはあると、新たなサービスが用意されてきた。広域通信制高校やサポート校をはじめとする「多様な教育機会」が次々に出てきた。ITの活用も言われるようになって、N高校が出てきて、その延長線上にクラスジャパンプロジェクトが出てきた。フリースクールなども、その流れに呑みこまれてきたと言える。

教育サービスは、既存の学校よりも柔軟で多様なほうがいいということになって、教育機会確保法が成立した。しかし、商品として売れることだけに価値があるという点では、価値観はむしろ一元化している。学校の外までが、その価値観で覆い尽くされてきている。ミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる「灰色」を思い出す。

でも、不登校がそうであるように、この状況に対するノーサインは、今後もさまざまなかたちで出てくるだろう(子どもだけではなく、自分たち自身のなかにも、そのノーサインは出ているはずだ)。状況がどのように変わろうとも、私たちに求められているのは、そのノーサインを受けとめ、人を商品としてまなざすのではない関係や場をつむいでいくことではないか。クラスジャパンの動向を知って、あらためて、そう思う。

プロフィール

HN:
山下耕平
性別:
男性
自己紹介:
1973年、埼玉県生まれ。大学を中退後、フリースクール「東京シューレ」スタッフを経て、『不登校新聞』創刊時(1998年)から8年間、編集長を務めた。2001年、フリースクール「フォロ」設立時より、同事務局長を務める。2006年より、同法人で18歳以上の人の居場所を始め、コーディネーターをしている(なるにわ)。2012年より関西学院大学で非常勤講師。著書に『迷子の時代を生き抜くために』(北大路書房2009)。野田彩花さんとの共著に『名前のない生きづらさ』(子どもの風出版会2017)。

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