blog 迷子のままに:

山下耕平(やました・こうへい)
NPO法人フォロ事務局長、不登校新聞社理事など。

不登校、ひきこもりなどを中心に、書いてます。
一部は「なるにわブログ」から引き継いでます。

   
カテゴリー「書評」の記事一覧

書評:『キリンの子』鳥居歌集

歌人の鳥居さんが歌集『キリンの子』を上梓された。差し出がましいようだが、少し書評(?)を書いてみたい。
 

たとえば震災などがあったとき、被災しなかった人でも、報道などで事実に接するだけで胸が騒ぐ。それは被災者の苦しみ、痛みに共感するからでもあろうし、自分の日常が揺るがされ、そのはかなさ、もろさを突きつけられてしまうからでもあるだろう。いずれにしても、日常にパックリと開いた穴からは、不穏な風が吹きつけてくる。

鳥居さんの存在(その経験も含めて)は、それ自体が震災のような作用を人にもたらす。深い共感を引き起こす一方、「こんなのはウソだ」と否認する人もいれば、「特別な人だ」ということで、自分の日常からは切り離したうえで賛美したりする人もいる。

それが、鳥居さんの過去の経験だけで引き起こされているのであれば、鳥居さんの存在は、凄絶な過去を背負った、かわいそうな女性のストーリーとして、一時的に消費されて、忘れ去られてしまうだろう。しかし、鳥居さんの凄みは、自身の経験から見えた世界を、短歌という、たった三十一文字に結晶化させ、私たちの日常をスパスパと斬ってみせていることにある。

たとえば太宰治の小説を読んだとき、これは太宰の実体験なのか、小説なのかと、とまどった経験を持つ方も多いだろう。でも、それが実体験であるかどうかは、あまり大事なことではない。雑多な事実に縛られて書くよりも、事実を結晶化させた作品は、より真実を描いていると言える。その肌触りに、人はぞっとしつつも、惹かれるのだ。

鉱石は、自然界にあるままでは石ころだ。それを高熱でどろどろの液状に溶かし、金属を抽出して、はじめてその性質を発揮する。それは人を殺める道具にもなれば、調理器具にも、宝飾品にも、貨幣にもなる。

鳥居さんは、いわば高熱をくぐり抜けた金属だ。そしてその短歌は、金属をさらに鍛錬して加工した刃だ。しかも、すこぶる鋭利で切れ味がよい。そしてまた、鳥居さんの短歌にも、刃物がよく出てくる。それは偶然ではないだろう。

ただ、刃物は使い方をあやまつと、人を傷つける道具にもなる。可能性は常に、危険性と裏腹にある。その危険な香りだけを文学だと思う人もいるだろう。でも、鳥居さんには、その危険をもくぐり抜けて、生を根本から肯定する強い意志がある。だからこそ、その刃は錆びない。三十一文字に鍛え抜かれた刃は、私たちの日常をスパスパと斬りながら、不穏な風を吹き寄せながらも、逆に、私たちの生を再生させる(これがなまくら刀だと、生を傷つけて終わってしまう)。

「生きづらい」と感じている人は、ぜひ、鳥居さんの短歌に触れていただきたい。そして、歌集を読んだうえで、鳥居さんの背景を知りたい方は、『セーラー服の歌人 鳥居』も併せて読むことをお勧めしたい。


書評『不登校・ひきこもりが終わるとき』

不登校やひきこもりに関わる人は、大別して二つに分かれるように思う。

ひとつは、学校や社会に適応することが「健全」であるとして、不登校やひきこもりを「問題」とし、いかに「健全」な状態に戻すかを「支援」として捉えている場合。

もうひとつは、学校や社会の状況のほうを問題とし、むしろ不適応を起こすほうが「健全」であるとみて、本人を変えるのではなく、学校や社会のあり方を問い直すことが「支援」になると捉えている場合。

実際には、団体や人によって、ニュアンスはいろいろだが、根っこの部分では、どちらかのベクトルを持っていると言って、差しつかえないと思う。私なんかは後者に立っていると言えるが、その場合でも、当事者を差し置いて理想論を語っていては、本人にとっては迷惑なだけだろう。当事者は、現実の矛盾のなかを生きてるわけで、学校や社会に適応したいという気持ちもあれば、こんな学校や社会はおかしいという気持ちもあって、そうスッキリとはいかない。

本書の著者、丸山康彦さんは、自身が高校のときに不登校になり、社会人になった後も、ひきこもっていた経験がある。現在は、神奈川県でヒューマンスタジオという相談機関を立ち上げ、不登校やひきここもりについて相談を受ける仕事をしている。

本書は、丸山さんが配信し続けてきたメールマガジンがもとになっている。自身の経験をベースに、さまざまな相談を受けてくるなかで練られてきた深い思索と、具体的な手立てが、有機的に結びついて綴られている。一貫しているのは、本人の側に立って、内側から不登校やひきこもりを捉えていることだ。

丸山さんは、「不登校やひきこもりに必要なのは治療でも矯正でもなく配慮である」と言う。それは病気やケガとちがって、「新しい自分あるいは生き方を生み出すこと」で、そこには苦しみや葛藤はあるが、あくまで「本人の生きざま」で「自分の足で踏破することを応援すべき」である、と。

とくに、暴力や依存症など問題となる言動が続くと、周囲は何とか矯正しようと躍起になりがちだ。しかし、丸山さんは、そういう言動をただちにやめさせる術はどこにもない、と断言する。できるのは、本人の根っこにある「真剣な叫び・問いかけに“耳を澄ませること”」だ。本人を誘導するのではなく、斜め後ろに立って「後方支援」で支え続けること。本人の「自律力」を信じること。

私は「支援」という言葉を安易に使いたくないのだが、不登校やひきこもりについて「支援」と言うならば、丸山さんが本書に書かれているようなスタンス以外にはないだろうと思う。

本書は、当事者でもあり支援者でもある丸山さんだからこそ書けた本だ。ただ、欲を言えば、もう少し社会のあり方を見通す視点がほしかったようには思う。タイトルであり結論である「不登校・ひきこもりが終わるとき」で、丸山さんは「どんなに苦しんでも大丈夫、必ず終わる」「不登校とひきこもりの“終わらせ方”はなく、終わらせることができるのは当の本人以外にいない」と言う。その通りだと思う反面、終わらない道筋というのもあるだろうと思う。ただ、それも当事者を差し置いて、周囲が言うべきことではないだろう。

不登校やひきこもりにかぎらず、「支援」に携わる人には、ぜひ読んでほしい1冊だ。
(山下耕平)

 『不登校・ひきこもりが終わるとき』
丸山康彦(ライフサポート社/2014年4月刊)


書評『愛とユーモアの社会運動論』

北大路書房から『愛とユーモアの社会運動論』(渡邊太)という本を贈っていただいた。読んでみてびっくり、自分の問題意識と重なる部分が多いというか、ほとんど全面的に同意共感し、ほれぼれとしてしまうほど、ググっとくる本だった。
 
著者は、資本主義の仕組みから説きおこし、なんで、いまの社会に生きていると、こんなにも疲れてしまい、息苦しいのか、ていねいに解き明かしてくれる。それはマルクスが吸血鬼にたとえたように、資本が生きた労働を吸い尽くして増殖していくからで、末期資本主義の現在は、人は労働だけではなくて、消費から私生活の領域まで、すべてを資本に吸い尽くされてしまっている。末期資本主義のなかで、私たちは無際限に走り続けるよう仕向けられている。しかも、がんばればがんばるほど、不安定化し、窮乏化してしまう。
 
絶望的な状況のなか、「希望は戦争」とか言ってしまうのではなくて、希望を見出すことはできるのか。著者は、深く内面化されてしまっている「禁欲的頑張る主義」や、“現実なんてこんなものさ”と決めつけている硬直した精神を笑いとばし、ユーモアをもってたたかい続けることを提唱する。イタリアのアウトノミア運動や韓国のスユノモ、国内のだめ連や素人の乱、著者が関わるカフェコモンズの活動など、さまざまな具体例をひきながら、可能性を探っている。個々バラバラ、疑心暗鬼に競争を強いられる強制労働社会にあって、人々が自律的につながってコミュニケーションできる有象無象のスペースをつくっていくこと。いま、必要なのは、そういうさまざまな実験なのだ。著者は言う。
 
たまたま実現しているにすぎない現実を唯一不変の現実と信じ、別様の生を想像できなくなってしまうシリアスさの呪縛から逃れるためには、遊びが必要である。遊びのなかで、わたしたちは、世俗的な功利主義的価値や権威主義的序列から意味を奪い取り、自律的な生を取り戻すことができるかもしれないのである。(中略)わたしたちが社会をつくるための方法論は、遊びと実験である。
 
 
「禁欲的頑張る主義」は、学校を通じて内面化されるものでもあるし、不登校やひきこもりは、別様の生のあり方への通路ともなりうるものだと私は感じてきた。それはまっすぐな道ではなくて、複線的というか、行きつ戻りつというか、矛盾だらけの迷走路だろう。資本主義の外には出られそうにないし、むしろ潜りながらつながっていく、みたいな。私たちがコムニタス・フォロでやっていることも、いわば“遊び”だ。
 
冒頭に書いたように、私はここに書かれたことに、ほぼ全面的に同意共感するのだが、あえて言えば、ニートという概念へのこだわりについては、どうかなと思うところもあった。著者はニートという言葉を逆手にとって、“ニートピア”“ニート鍋”などの企画を催している。それは、労働の拒否というアウトノミア運動の残響がそこに感じられるからだというが、私は、不登校にしても、ひきこもりにしても、ニートにしても、それ自体をアイデンティティにしてしまわないほうがいいような気もしている。学校に行かないとか、ひきこもっているとか、働かないというのは、いわば状態像で流動的なものだし、あんまりこだわると、かえって硬直してしまうような気もするのだ。
 
それにしても、すごく身近にいながら、著者の渡邊太さんにお会いしたことがない(たぶん)。渡邊さん、おしゃべりしたいので、私と遊んでください!


プロフィール

HN:
山下耕平
性別:
男性
自己紹介:
埼玉県生まれ。大学を中退後、フリースクール「東京シューレ」スタッフを経て、1998年、『不登校新聞』創刊時から、2006年6月までの8年間、編集長を務めた。また、2001年10月、フリースクール「フォロ」設立時より、同事務局長を務める。2006年10月より、若者の居場所「コムニタス・フォロ」を立ち上げ、コーディネーターをしている(現在は「なるにわ」と名称変更)。2009年2月、『迷子の時代を生き抜くために』を上梓。

拙 著


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