blog: 迷子のままに


山下耕平(やました・こうへい)
NPO法人フォロ事務局長、不登校新聞社理事、
関西学院大学非常勤講師など。
おもに、不登校、ひきこもりなどにについて書いてます。

   
カテゴリー「脱原発と脱学校」の記事一覧

脱原発と脱学校-13(了)

脱学校というのも、同じことだろう。これまで、学校を通じて、人は階層上昇を望み、土着的なものから離れ、ひたすら都市へ、抽象的な世界へと邁進してきた。学校は、人から労働力というエネルギーを取り出す「炉」として機能してきた。しかし、生態圏の一部である自分自身から、そのことへのノンが表出されている。そうしたノンのひとつが、不登校やひきこもりだったりするのだろう。
 
これに替わる教育システムは、やはり、分散型のものになるべきだろう。偏差値なんていう抽象的で一元化された価値基準を廃止し、分散化、多元化された具体性に結びついた学びへと転換する。ひたすら学歴という市場価値を高めることにばかりエネルギーを注入するのではなく、生活や働くことや地域とのつながりを持って、自分が主体として生きられる実感のある学び。一方的にエネルギーを浪費してしまうのではない、さまざまなつながりから、エネルギーが循環していくような、学び。そのためには、学校制度の構造だけではなく、社会構造そのものが変革されないといけない。
 
むう、やっぱりガキっぽいイメージしか出せていないが、ガキっぽかろうが、青臭かろうが、これまでの社会システムとはちがう、生態圏の摂理に沿った社会のイメージを出し合うことが、いま、とても必要なんだと思う。
 
一見、ネガティブな、これまでの社会システムからこぼれたところにこそ、痛みとともに可能性はある。いまなお、そしてこれからも続く苦しみに祈りを捧げつつ、とりあえず稿を閉じたい。

脱原発と脱学校-12

先に、根本的な問いは、つねにガキっぽいものだと書いた。それでかまわない、と。しかし、少しだけ脱原発・脱学校の社会のイメージを書いてみたい。いつものごとく大ざっぱで乱暴な物言いであることは承知のうえで。
 
脱原発で、再生可能エネルギーへと転換する場合、これまでのような集権的なエネルギーシステムを、分散的なシステムへと変えていくことが必要のようだ。福島で作った電力を東京で使う、福井で作った電力を大阪で使う、こうした巨大システムは組み替えられなければならない。
 
これまでの産業社会にも同じことが言えるだろう。巨大なエネルギーを集約して稼働させる巨大システム、地方はそのための労働力と食料とエネルギーの供給地にされてきた。人は都市部へと集中する一方、地方は衰退し、第3次産業がふくらむ一方、第1次産業は衰退してきた。しかも、いまや労働力と食料とエネルギーの供給地は海外へと移転している。このままでは、地方に希望はない。もっと言えば、都市にも希望はない。労働力と食料とエネルギーを海外に依存する、砂上の楼閣のような都市なんて、維持できるわけがない。天空の城ラピュタのようなものだ。シータだって言ってたじゃないか。「どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんのかわいそうなロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ」。
 
原発に依存することで維持してきた、この産業構造は、変化せざるを得ないのだ。集権的ではなく、分散型のシステムへ。電力供給の構造だけではなく、システムそのものが変革されないかぎり、原発問題は解決しないだろう。

脱原発と脱学校-11

話が原発からは遠ざかってしまったようだが、そうでもないかなとも思う。整理のために繰り返せば、原子力は特異なエネルギーで、それは生態圏にはないはずのものだ。その「一神教的」な仕組みは、資本主義と同型で、資本主義の膨張は、やはり生態圏を破壊し始めている。しかも、それでも生態圏の摂理を超えて、無限に膨張できるように錯覚されている。原子力も資本主義も、生態圏や人の生きる社会をズタズタにしてしまう。人も自然もお金の価値のみではかられ、市場価値のみが唯一絶対の価値になり、それ以外の価値尺度は破壊されてしまう。
 
市場で価値がないとされた人には、ウラミンが溜まる。核のゴミならぬ、資本主義のゴミというわけだ。ウラミンは使用済み核燃料のごとく、冷温停止が容易ではなく、ややもすると暴走して破壊的エネルギーを放出する。
 
ウランとウラミンの扱いのちがいは、ここからだ。ウランは採掘をやめるべきで、替わって生態圏の摂理に従ったエネルギーを推進するべきだろう。再生可能エネルギーというヤツだ。
 
ウラミンは、むしろ溜まっているものを採掘し、さらけ出してしまうことが必要だ。閉じたなかで暴走しているエネルギーを、開かれた関係のなかで、関係再生のエネルギーへと転換する。それは、容易なことではないだろう。ときどき暴発して、つながりが壊されてしまうこともあるだろう。それでも、ときにめげならも、「傷の舐め合い」と言われようと、何と言われようと、そういうつながりからこそ、ズタズタになった社会は再生するのだと言いたい。

脱原発と脱学校-10

月乃さんの詩がなぜ爽やかなのかと言えば、自分をさらけ出しているからだろう。自分の苦しみ、葛藤、恥ずかしい面を、思いきりさらけ出し、笑いとともに、見えない壁に風穴を開けてしまう。その風が、人の緊張感をゆるめ、「自分も弱みをさらけ出してもいいかな」という気にさせてしまう。自分の弱みをさらけ出して、なお、つながっているというのは、安心感のあることだと思う。まさに、“仲間”だ。
 
ウラミンの溜まっている人にかぎって、仲間に対して「傷を舐め合っているだけだ」という批判をする。そういう人ほど、ほんとうは仲間を欲している。そう感じることが多い。月乃さんのように、「仲間で、傷を舐めあって、傷口をほじくり回して、傷口をつつきあって/流血して、大流血/血と汗と涙と/鼻水とよだれを流しながら/生き抜いていこう、仲間」とまで言ってしまえば、怖いものは何もない。
 
よく、言われるように、いまは無縁社会で、つながりが失われている。しかし、古きよき共同体を幻想しても意味はない。ウソくさいつながりは、うんざりだ。ましてや“がんばれ日本”で一致団結なんて、まっぴらごめんこうむりたい。なぜなら、そこには個がないからだ。
 
生きづらさは、人をつなぐメディアになり得る。生きづらさは、人によって異なる。それぞれのちがいを認めつつ、それぞれが自分の感じていること、自分と社会のズレ=傷から、社会を問うていくこと。それを人と分かち合い、人とつながっていくこと。おたがいをつぶし合っている膨大なエネルギーを変換し、人と人をつなぎ、社会をつむぎなおしていくエネルギーにしていくこと。そんなことを夢想する。

脱原発と脱学校-9

問いは、つねにすでにあるのだ。それが、閉じているだけで。孤立していると、内面化された世間の価値尺度でのみ自分のことをはかり、それはウラミンになってしまう。外の価値尺度で自分を責め立てることにエネルギーを使うのではなく、自分の身体が感じていることから、内から外に向かってエネルギーを放ち、そこにある葛藤、問いを他者と共有していくこと。そういうつながりは、大きな力になるのだと信じたい。大仰に言えば、それは、オルタナティブな社会性ではないか。
 
先日、“困りごとの祭典”に来ていただいた、月乃光司さんの詩「仲間」から引用したい。
 
…………………………………………………………………………………………
 
足に釘が刺さっていて動けない 
道ばたで倒れて、ひとりぼっちで泣いていた 
誰も足の釘を抜いてやることはできない 
痛みを取ってやることはできない 
でも、僕と同じように足に釘が刺さった仲間が 
「俺も痛いんだ! でも一緒に這っていこうぜ」って言ってくれたら 
僕も前に進める気がする 
痛みながら這っていこう、一日一センチずつの前進だ 
 
仲間がいれば、僕は生きていける 
仲間で、傷を舐めあって、傷口をほじくり回して、傷口をつつきあって
流血して、大流血
血と汗と涙と
鼻水とよだれを流しながら 
生き抜いていこう、仲間 
 
ひとりぼっちでずっと生きてきた 
生きることができない
死ぬこともできない 
人が怖い、だけど孤独に苦しんでいる、それが僕だった 
僕と同じ心を持つ人たちがいることに気付いた 
「生きづらさ」を共に分かち合っていこう、仲間 
仲間がいれば僕は生きていける、仲間
 
…………………………………………………………………………………………
※フォロでの「仲間」朗読は下記に動画があります。

脱原発と脱学校-8

ウラミンには、大ざっぱに言って、二種類あるように思う。ひとつには、加害者など相手のある場合。自分に危害を加えた相手を許せないという気持ちが溜まって、いつまでたっても、ウラミンとして残ってしまっている場合。もうひとつは、世間の価値尺度で見れば低い位置にいる自分が、自分でも許せず、世間へのうらみつらみになって溜まっている場合(現実には両者が絡まっていることが多いだろう)。どちらも、誰の心にもあるものだろうが、一定量を超えると内部から人をむしばんでしまう。前者については、一般論にはしにくいので、ちょっと置いておくとして、後者について考えてみたい。
 
世間の価値尺度でのみ自分のことをはかって、ものすごく自分を否定してしまっていると、ウラミンは溜まってしまう。しかも、自分のことを否定しているだけではなく、自分と同じ立場にいる人をも否定する。たとえば学校に行っていない/働いていない自分を許せていない人は、学校に行かない/働かないことに対して、誰よりも否定的だ。つながり得るはずの当事者どうしが、おたがいを攻撃しあってしまう。そういうことが、しばしばある。
 
世間の価値尺度から自分がズレてしまったからこそ、問いは生じる。また、別の価値尺度で人とつながるチャンスになりうる。しかし、放っておくと、ウラミンのエネルギーに負けてしまって、泥沼にはまりこんでしまう。つながり得るはずの人との関係を壊し、孤立を深め、悪循環してしまう。好機と危機は、つねに裏腹なものなのだろう。私たちには、危機を好機へと捉え返していく知恵が必要だ。

脱原発と脱学校-7

得てして私たちは、社会システムのリクツに合わせて生態圏の摂理をねじまげ、ノンを押し込めてしまっている。そうしていると、何か閉じたなかでエネルギーが鬱屈してしまって、うらみつらみが蓄積されていく。そして、それは自覚されないまま、自分を痛めつけたり、おたがいを痛めつけ合っていたりする。「生きづらい」というとき、そこが大きな桎梏となっているように思う。
 
うらみつらみのエネルギーのことを、「ルサンチマン」なんて用語で呼ぶのはやめて、「ウラミン」と名づけてみる。ウラミンのエネルギーは、とても強力だ。人を捕らえて離さない。半減期は何年になるだろう? ヘタをすると半永久的になくならないかもしれない。冷温停止は容易ではない。それどころかコントロールを失うと暴走して、自分も周囲も破壊してしまう。まったくやっかいだ。
 
ウラミンからの脱却は、とても難しい。つい先日の“困りごとの祭典”でも、「許す」というテーマが問題になった。月乃光司さんが「最大の復讐は許すこと」と言ったのに対し、「でも、許すことなんてできない。加害者を同じ目に遭わさないと気がすまない」という本音がぶつけられた。ここは、とても難しい問題だ。溜まったウラミンを、リクツで、頭で解消することはできない。本音を抑圧したら自家中毒を起こしてしまう。かといって、ウラミンに依拠していては、いつまでも自分が苦しい……。司会をしていた私も、「へんにまとめてもよくないですから、ちょっと置いておきましょう」と言うしかできなかった。

脱原発と脱学校-6

「原発がなかったら国際競争に負けてしまう、貧しくなってもいいのか」
「学歴がなければ仕事もない。ホームレスになってもいいのか」
 
耳にタコができるほど、こういう反論は聞いてきた。「そういう青臭いことを言うのはガキだ」ということも、よく言われる。しかし、根本的な問いというのは、つねにガキっぽいものだ。すでにできあがっているシステムを動かすための「大人」のリクツでは、システムそのものを問うことはできない。
 
なぜ、ガキっぽいかと言えば、代替となる社会像が描けないからだろう。それは、たしかにその通りだ。でも、おかしいと感じたことに、ノンと言い切ること。イヤなものはイヤと言えること。これは、生き物として、とても大事なことにちがいない。
 
不登校とかひきこもりの場合、頭ではノンと言えないのに、身体のほうから先にノンが出ていることが多いように思う。そのノンから頭のほうを問い直し、社会を問い直していく道筋が、不登校運動だったように思う。大仰に言えば、生態圏の摂理にしたがって、この社会システムを問うということだ。そこには、とても開かれたエネルギーがあったように感じる。

脱原発と脱学校-5

かつてイヴァン・イリイチが「脱学校」といったとき、それは、たんに学校を問題にしていたのではなく、システム化された社会そのものを問題にしていた。システムに依存すればするほど、人は無力感を覚えるようになり、主体的に生きることができなくなる。そういう“灰色”の世界に人を導き入れている装置が学校だというのだ。学校で「学力」を身につければつけるほど、自分自身が疑わしくなって、無力感を深めていく。そして、ますます専門家やシステムに依存するようになっていく。
 
学校という装置によって、子どもは、それまでの共同体がもっていた、おたがいさまで生きる社会から切り離され、いわば“灰色”の近代社会システムに組み込まれてしまう。近代社会をつくるには、学校は不可欠の装置だったと言えるだろう。人を労働力として産業社会に送り込むための装置。いわば、労働力というエネルギーをとりだすための「炉」だ。
 
だからといって、昔にかえるというわけにはいかない。第一、昔の共同体を美化するのは幻想にすぎない。しかし、このまま“灰色”の世界を進むことは、もうできない。あらためて、脱学校を考えるときだ。脱原発を真剣に考えるときが来たように。脱原発・脱学校の社会。古きよき昔ではなく、新しく、つむぎなおされる社会。

脱原発と脱学校-4

 資本主義を推進してきた巨大なエネルギーが原子力だということは、たしかなことだろう。でも、あたりまえのことだが、資本を生み出してきたのは人間の労働力だ。その労働力のしぼりとられ方が、生態圏の摂理に反している。過労死するまでの過剰労働、食べていけないほどの不安定労働、生き物としての自分が壊されてしまうほど、自分のエネルギーが労働にしぼりとられている。
 
環境問題というと、自分の外にある環境のことばかり考えがちだが、自分だって生態圏の一部で、「自然」にほかならない。資本主義が生態圏を破壊しているというとき、それは自分自身のことでもある。
 
たとえば能力の開発の仕方がおかしい。早期教育で、ややもすると、ものごころつく前から能力を開発され、少しでも高い商品価値がつくように「教育」される。商品価値の視線は、どこまでも深く射し入って、遺伝子にまでいたる。これでは、まるで原子を崩壊させてエネルギーを取り出すようなものではないか。人間の細胞の核を割って、そこにある遺伝子まで操作しようとしているのだから。あらゆる自然を資源とみなし、人間までも資源とみなす。それ以外の価値尺度は、よけいなものとして、徹底的に壊されていく。そして、個人の能力を高めることだけが推進される。
 
そこでは、人は主体として生きることができない。商品としてしか生きることが許されない。縁から切り離され、まるで分子結合を失った原子のように。そして、その孤立した原子=個人が追いつめられて壊れてしまったとき、とほうもないエネルギーが放出されて、周囲を破壊してしまう。そういう事件が、いくつも起きてきたのではなかったか。乱暴なようだが、そういうふうに思えてならない。

プロフィール

HN:
山下耕平
性別:
男性
自己紹介:
1973年、埼玉県生まれ。大学を中退後、フリースクール「東京シューレ」スタッフを経て、『不登校新聞』創刊時(1998年)から8年間、編集長を務めた。2001年、フリースクール「フォロ」設立時より、同事務局長を務める。2006年より、同法人で18歳以上の人の居場所を始め、コーディネーターをしている(なるにわ)。2012年より関西学院大学で非常勤講師。著書に『迷子の時代を生き抜くために』(北大路書房2009)。野田彩花さんとの共著に『名前のない生きづらさ』(子どもの風出版会2017)。写真は、内池秀人さん撮影。

拙 著


ブログ内検索

Twitter

カレンダー

01 2020/02 03
S M T W T F S
1
2 3 4 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
Copyright ©  -- Kohei Yamashita --  
Design by CriCri  / powered by NINJA TOOLS /  /