blog 迷子のままに:

山下耕平(やました・こうへい)
NPO法人フォロ事務局長、不登校新聞社理事など。

不登校、ひきこもりなどを中心に、書いてます。
一部は「なるにわブログ」から引き継いでます。

   

起承転々……

迷子の時代を生き抜くために』を書いたとき、ある親の会の方から、「これまで、学校信仰の代わりにフリースクール信仰を抱いていたことに気づきました」という感想をいただいた。私が「迷子」と言ったのは、いわば「正解」がないことをそのままに(迷子のままに)生きていければいいのでは、ということだったのだが、なかなか、それは難しいのかなと感じることが多い。どうしても、学校に代わる「信仰」は求めてしまうし、それを引き受ければ、フリースクールも商売としてはうまくいくのかもしれない。でも、それでは、極端に言えば、不登校を「治す」壺だとか聖水と変わらなくなってしまう(また、怒られそうだ……)。

たとえば、マスコミの人に取材なんかを受けたとき、ある程度、話が通じるかなと思う人でも、どうしてもズレるところがある。それは、相手は起承転結を求めていて、その「結」がないと、どうしても納得しない、というところだ。活動としては、「結」なんて求めていなくて、いわば起承転々、永遠に転がっている感じでやっている。With no direction home, Like a rolling stone(家に帰る道もなくて、転がる石のようにbyボブ・ディラン) とか言ったら、カッコつけすぎだけど、「結」を求められると、どうしても、うさんくさく感じてしまう。

一例を挙げれば、当事者研究がおもしろいのは、たぶん「結」を求めてないからだろう。そういう下心(?)を置いて、虚心坦懐に人の話を聴いていると、「結」に縛られない話が、いろいろに出てくる。それがおもしろい。最近、斎藤環さんが流行らせた「オープンダイアローグ」なんかも、似たような感じなのかもしれない(よく知らんけど)。

先の記事で、「ふつう」からズレてしまったとき、そこに生じるとまどいや抵抗感こそ大事なのではないかと書いたが、私のなかには、フリースクールなどが学校に代わる「信仰」「結」になることへの抵抗感もあるのだと思う。もちろん、個々人が「結」を得ることが問題だとは思ってない。ただ、「結」が見えなくても、森毅さんが「ワクすれすれ」「境目をフラフラ」「どないなっても、なんとかなるで」と言うように、起承転々……と、転がり続けていくのも、楽しいことなのだと思う。

フリースクールに行ったら本当の不登校になる? のつづき。

フリースクールに行ったら自分が本当の不登校になってしまうから」について、もう少し考えてみたい。実際、ご本人がどういう気持ちで言われたのかはわからないが、私自身が出会ってきた人たちとの関係で考えたとき、ここには「ふつう」から分けられたくない、という気持ちがあるように思える。あるいは「ふつう」でなくなってしまったとは思いたくない、という気持ち。それを「学校信仰」という言葉で片づけてしまってはいけないように思う(参照した石井志昂さんの記事で、そう書かれているわけではないが、不登校運動のなかでは、そういうふうに片づけてきてしまった面があるように思う)。

話が横道にそれるようだが、先日、喫茶店で隣にいたママ友どうしと思われる2人が、こんな話をしていた。就学時健診で子どもが発達障害と診断されて、特別支援教室に入れられることがある、自分の子どもは普通学級だったけれど、お友だちは特別支援教室に行った、でも、親はそれを認めたくないようだ……。話された方は、とまどいとして話されていたように思うが、聞いていた方は「でも、ほかの子に迷惑かけてるわけやん。それを認めへんのっておかしいんちゃう。それって親のエゴやん」と返していた。話はそのまま、ほかに流れていったのだが、横にいた私は割って入ることもできず、もやもやしていた。自分の子どもが「ふつう」から分けられてしまうことに抵抗感を覚えるのは、親のエゴだろうか?

「ふつう」から分けられてしまうことへの抵抗感を、本人(親)の意志や気持ちの問題として片づけてはいけないのではないだろうか? もちろん、不登校に対しても、発達障害に対しても、そこに偏見や差別があることは問題だ。本人(親)自身、その偏見を内面化していることはあるだろう。みずからの偏見ゆえに、「ふつう」からズレることが苦しいということもあるだろう。そこで、それを問い返すには、学校ではない居場所、発達障害の当事者グループなど、世間の見方とはちがう価値観との出会いが必要にちがいない。しかし、それは「ふつう」の外にあるのではなくて、「ふつう」を問い返す磁場として必要なのではないだろうか。「ふつう」の外に追いやって、それをダメな子と見なすのも、才能のある子とみなすのも、どちらも排除にはちがいない。

「障害児を普通学校へ」の運動に関わってきた北村小夜さんは、「ふつうは、いいところじゃない。シャバなんだ」と言う。「いいところ探しを始めると、特殊になってしまう。だから、いいところ探しはやめよう。それよりも、いま、自分のいるところを少しでもいいところにしていこう」と。私が、「でも、そのシャバの寛容度が低くなってきたから、子どもが苦しんできたわけですよね」と問うと、「ふつうが狭まってきたからね。できる子も、できない子も分けられてきたから、ふつうがどんどん狭まってきた」と話されていた。(不登校50年証言プロジェクト#22北村小夜さん

私自身、ずっとフリースクールに関わってきているので、フリースクールを特殊な場ではなく「ふつう」の場にしたいという気持ちはわかる。しかし、実際問題として、多くの不登校の当事者にとって、それは「ふつう」の向こう岸になってしまう。良し悪しは別にして、「ふつう」から降りなければ、なかなか向こう岸には行けない。そこに、とまどいや抵抗感が生じるのは当然だろう。実際にフリースクールに通ったからといって、それが消えるとも思えない。でも、そのとまどいや抵抗感こそ、大事なのではないか。そんなふうに思える。

大事なところなので、乱暴にまとめることは避けて、森毅さん(数学者/1928―2010)のインタビューの言葉を紹介して終わりたい。

ワクから外に出きってしまうと、そこにそれなりの安定があったりする。ワクからはずれてアウトローの秩序に入ってしまったりね。私は、ワクすれすれが性に合っとるんやね。(中略)しかし、昔に比べると帰り道が少なくなっているような気がしますね。(中略)境目のところが刈り取られて無人地帯みたいになってしまって、境目をフラフラすることができなくなった。いったんアウトに行ったら、ぽーんと行ってしまう。気楽に仲間からはずれて、気楽にもどることができるのがいい集団だと思う。
(中略)
自然水路というのは、岩があったり、ゆるやかになったり、いろいろでね。岩があったら、かならず乗り越えなきゃいけないものでもないし、かならず逃げなきゃいけないものでもない。そのときどきで、さまざまに流れていきますよね。それが自然というものでしょう。「人生には岩があったら乗り越えるべきだ」と言う人もいるけど、20メートル先に行ったら同じこっちゃね。
(中略)
どないなっても、なんとかなるで(笑)。

インタビュー、あいだ、スリリング

手前味噌で恐縮だが、不登校50年証言プロジェクトのインタビューは、とてもスリリングな仕事だと感じている。骨太インタビューの連続、全力疾走でマラソンを走っているみたいで、正直に言うと息切れ気味だが、そのスリリングな味わいゆえに、走っていられるのかなと思う。

何がスリリングかと言えば、ひとつには、これまでもやっとしていた問題について、いろんな人に尋ねられるということがある。たとえば、精神医療と「登校拒否は病気じゃない」、若者の雇用状況の劣化と「学校に行かなくても大丈夫」、「障害児を普通学校へ」と不登校、発達障害と不登校、教育機会確保法をめぐる意見の対立など、それらはすれちがってきた面もあるが、よく考えないといけない点がたくさんある。

そこで、きちんと相手の話を聴き、また相手に問いを返していくには、不登校の文脈からだけで物事を見るのではなく、いったんは相手の文脈に立って考えたうえで、聞いていかないといけない。だから、勉強量を必要とする。これも正直に言うと疲れるのだが、それによって自分の物事を考える枠組みの狭さがよくわかるし、そういうことは、ある種の強制力が働かないと、わざわざやらないので、得がたい機会になっている。

インタビューは、interviewと書く。つまり、見解(view)のあいだ(inter)に生じるものだ。自分の見解の内側にとどまって、自分に耳障りのよいことばかりを聞いていてはダメだし、相手の見解をなぞるだけでもおもしろくない。自分が自分の土俵の外に出て、相手にも出てきてもらって、そこで対話すること。それは、とてもスリリングで、おもしろい。

どこまで、それができているかは、読者の判断にゆだねるほかないが、これからも、できるかぎり、スリリングなインタビューをしていきたいと思っている。

フリースクールに行ったら本当の不登校になる?

「フリースクールに行ったら自分が本当の不登校になってしまうから」

不登校新聞の編集長、石井志昂さんは、不登校している子どもの大半がフリースクールには通っていない事実をあげて、その理由には、数が足りないこと、経済的な理由、心理面のハードルの3つがあると指摘、心理面のハードルの例として、「フリースクールに行ったら自分が本当の不登校になってしまうから」という、ある女性のコメントを紹介していた。(「ぶらり不登校」AERA.dot 2017/06/22

この女性のコメントは、とても大事なことを語っているように思う。でも、それをフリースクールに通う際の「心理面のハードル」としてよいのだろうか? たしかに、こういう心情から、フリースクールに通ってみたいと思っても、足を踏みとどまらせてしまうことはあるだろう。しかし、意識したり言語化したりしているかどうかは別にして、こういう心情は、フリースクールに現に通っている人の多くも、持っているように思う。

石井さんは、不登校経験者であり、フリースクールに通っていた経験がある(そして当時、石井さんが通っていたフリースクールで、私はスタッフをしていた)。石井さんにとって、不登校になったあとフリースクールに通った経験は大きい意味を持っていて、それゆえ、不登校の子どもの大半がフリースクールに通っていないことはなぜなのか、という視点から記事を書いているように思う。しかし、実際問題としては、不登校という文脈と、フリースクールという文脈は、重なる部分はあっても、同じではない。

そのあたりについて、私は、近著で次のように書いた。

不登校の当事者運動のなかでは、学校に行かないことを、フリースクールやホームエデュケーションに置き換えることで、学校に対置しうる教育(=選択できるもの)として位置づけようとしてきたと言える。ここに、問題がねじれてしまう、最大の要因があるように思う。

不登校という名前は、それ以前に比べれば淡白になったとは言え、やはり、そこには学校に行かないことを異常視するような、名づける側のまなざしがある。しかし、それを周囲がフリースクールやホームエデュケーションなどの名前に置き換えて、世間に理解しやすいストーリーに組み替えてしまうことも、本人不在と言えるだろう。


不登校というのは、経済的な理由や病気でもないのに学校を長期に休むことが異常視されて、名づけられたものだ。学校を休むことを許さないまなざしが、不登校への「心理的ハードル」となって、子どもたちを苦しめていると言えるだろう。

石井さんは、学校以外の選択肢がないから、「どんなに苦しいいじめがあっても、そこに毎日通わなければならない」「不登校を許さない社会が彼らを追い詰めたんではないか」という(前掲記事)。しかし、休むことを認めることと、学校外の選択肢を増やすことは別問題だ。そこをイコールで結んでしまうと、大半の不登校の当事者のリアリティとは、ズレてしまうのではないだろうか。
ここには、まだ考えたいことがいろいろあるが、機会をあらためたい。

プロフィール

HN:
山下耕平
性別:
男性
自己紹介:
埼玉県生まれ。大学を中退後、フリースクール「東京シューレ」スタッフを経て、1998年、『不登校新聞』創刊時から、2006年6月までの8年間、編集長を務めた。また、2001年10月、フリースクール「フォロ」設立時より、同事務局長を務める。2006年10月より、若者の居場所「コムニタス・フォロ」を立ち上げ、コーディネーターをしている(現在は「なるにわ」と名称変更)。2009年2月、『迷子の時代を生き抜くために』を上梓。

拙 著


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