blog 迷子のままに:

山下耕平(やました・こうへい)
NPO法人フォロ事務局長、不登校新聞社理事など。

不登校、ひきこもりなどを中心に、書いてます。
一部は「なるにわブログ」から引き継いでます。

   

なかったことにしてないか。

不登校のことが過熱気味に報道されていることに、もやもやが溜まってしまって、ぶつくさブログに書き散らしてきたが、もやもやする理由のひとつは、デジャブ(既視感)があるからだと気づいた。

90年代半ばごろも、不登校のことは大きく取り上げられていた。それまでの怠けだとか、弱い子だという世間の見方をひっくり返して、学校に行かなくてもいい、学校ではない学び育ちもある、学校に行かなくても社会でやっていけるといったことが、積極的に発信され、マスコミなどをにぎわした。そうした勢いに乗って、不登校新聞も創刊されたと言える。

しかし、一方で、不登校その後を生きている当事者には、苦しい状況を生きている人も多く、並行して、ひきこもりの問題なども語られるようになった。貴戸理恵さんと常野雄次郎さんの共著『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』(理論社2005)など、明るい不登校を語る言説への批判もなされた。しかし、それは炎上してしまい、ちゃんとした議論になることはなかった。

私は、そのあたりをきちんと考えないまま、不登校を肯定することもできないと思い、自分なりに試行錯誤を重ね、考え続けてきた。そのあたりで対話できる機会も模索してきた。不登校50年証言プロジェクトでも、そういう模索をしていた面がある。常野雄次郎さんにインタビューもさせていただいた。これを契機に、対立的になっていた関係者との対話の機会ができればとも願っていた。しかし、惜しくも常野雄次郎さんは亡くなられてしまった(そのあたりの経緯は不登校新聞に書いた)。

そうした歴史があるにもかかわらず、それを知る人がいるにもかかわらず、それがなかったかのように、かつてと同じような不登校肯定のストーリーが流されていることに、どうしようもなく、もやもやするのだ。

いま、メディアを通じて盛んに語られている言葉の多くが、苦しい渦中にある当事者に響くとは思えない理由は、そこにもある。

もやもやは続く……。

ブレーキをかけるべきではないか

夏休み明けに突出して子どもの自殺が多いということが、2015年に内閣府から発表されて、大きな話題となった。以来、この時期はマスコミが大きくこの話題を取り上げている。しかし、どうにもそれは上滑りしているように感じられてならない。

この時期が子どもにとって命に関わるほどしんどいということは、学校関係者、児童館や図書館の職員、親など、周囲の大人に対しての注意喚起としては必要なものだと思う。そのために、わかりやすく伝える必要もあるだろう。しかし、くり返されている「逃げてもいい」「死なないで」といったメッセージは、当事者に向かって発せられているにもかかわらず、顔の見えない、不特定多数に向かって繰り出されている言葉でもある。いま苦しい渦中にいる当事者に、はたして、それらの言葉は届いているのだろうか。

私自身、フリースクールなどを通じて、学校に行かない子どもたちと関わってきており、学校の外に子どもの居場所があることは重要だと感じてきた。夏休み明けの時期には、無料開放する取り組みなどもしてきた。しかし、フリースクールに来さえすれば、子どもが楽になるかと言えば、そう単純な話ではない。子どもが学校でつらかったことの経験や不登校の経験を自分なりに消化するのは、かなりの時間を要することだ。その子のつらさは、個別具体的なもので、一般論では片づけられない。ときに、学校に行かなくてよかったと思い、ときに行けなくなった自分を責め、揺らぎながら、だんだんに消化されていく。そこで、そばにいる大人にできることは、その揺らぎにつきあっていくことでもある。

そうした経験からすると、いまマスコミをにぎわせているような不特定多数に向かって発せられるメッセージは、渦中にいる子どもに響くとは思えない。

もうひとつ、懸念されるのは、かえって自殺をあおってしまうのではないかということだ。2017年の19歳以下の自殺者数は567人で、前年比47人増となっている(警察庁発表)。もちろん毎年増減はあるので、過熱報道によって自殺が煽られたと短絡するつもりはないが、報道関係者で、きちんとこの数字を省みた人はいるだろうか。

夏休み明けに突出して子どもの自殺者が多いというのは、たしかに重要な問題だ。しかし、当然のことだが、問題は自殺だけにあるのではない。子どもが死へと追いやられるほど、子どもにとって学校が苛酷な状況になっているということが問題の根幹だ。その状況を省みずに、ことさらこの時期だけに、自殺に焦点を当てて報道するのは、問題をゆがめているとさえ言える。

必要なのは、この時期にかぎって、ことさら自殺に焦点を当てて報道を過熱させることではなく、なぜ、子どもがそこまでつらい状況に追い込まれるのか、踏み込んで考えていくことだろう。もちろん、それは簡単なことではないが、さしあたっては、加熱報道にはブレーキをかけることを提案したい。

あさい・ふかい・ひろい・せまい

あさい・ふかい・ひろい・せまい。

ジャパンマシニスト社の雑誌名みたいなフレーズで恐縮だが、ここのところ、もやもやしていることについて、この切口で考えてみたい。

何かマイノリティの問題を社会に訴えたいというとき、少しでも広く訴えたいと思う。それは当然だろう。そこで、マスメディアに報道してもらったり、ネットで拡散してもらったりするために、わかりやすいストーリーを提供しようとする。あるいは、最初からそういうつもりはなくても、だんだん、そうなってしまう。

しかし、わかりやすさは単純化でもあって、広さと引き換えに浅くなってしまう。しかし、社会に訴えたい問題というのは、たいていは深くてややこしい問題だ。でも、そのややこしさをねばり強く考えようとする人は、当事者やその周辺という狭い世界にかぎられてしまう。それだと、世の中の大半の人は無関心なままになってしまう。

だから、広く伝える努力も必要にはちがいない。ただ、そこで失われてしまうものへの感度を鈍らせてはいけないと思う。広く代弁された言葉というのは、多くの当事者の現実とはズレているものだと言っていいだろう。そして、そのズレは、けっして無視してはいけないものだ。


●もやもやこそ大事に

広さは、いわば手段としては、ときに必要なものだろう。しかし、まちがっても広さ自体に価値があるかのように勘ちがいをしてはいけないと思う。たとえば、人に関わる活動をしている人で、数を誇示する人を散見する。これまで◎人の子どもたちと関わっただとか何だとか……。しかし、多くの人と関わるほど、ひとりの人との関わりは浅くなってしまう。それに、その関わった相手の側からして、自分の行動がよかったかどうかなんて、わからないことだ。にもかかわらず、数を誇ることができるのは、どこか感度が鈍いからだと言いたくなる。善意の傲慢さのようなものが、そこにはある。あるいは、有名であることに価値があるというような、権威主義がある。だから、数を誇示する人を私は信頼できない。

うがった見方にすぎるかもしれないけれども、マイノリティの問題がマスメディアに取り上げられ、広く伝わるとき、こうしたもやもやは、かならず溜まっていくように思う。

そして、広く伝わったものは、忘れられやすくもある。なぜなら、多くの人は自分ごとではない問題に、そもそもそんなに深い関心は持っていないのだから。でも、もやもやは残り続ける。深い関心を抱く人たちのあいだに。広く伝えることは、ときに必要だけれども、そこに溜まるもやもやこそを大事にしなければならないと、私は思う。

プラスチックのストローのようなもの

プラスチックのストローが問題だから、使うのをやめることにするだとか何だとか、そんなニュースがよく流れている。

なんだか、ごまかされている気がしてならない。

もちろん、プラスチックゴミの問題は深刻だろう。その深刻さを訴えるのに、わかりやすいイメージが必要とされているのかもしれない。しかし、大量に産出され廃棄されているプラスチックのうち、なぜストローをことさら槍玉にあげるのか、むしろ、ストローであれば廃止しても影響が少ないから、槍玉にあげているのではないかと疑ってしまう(しかし、製造している会社だとか工場はたいへんにちがいない)。

問題を直視すると、たいへんすぎるから、スケープゴートのように何かを槍玉にあげて、マスコミはそれに飛びついて、くり返し報道する。見ている人はわかったような気にさせられてしまう。あるいは何かよいことでもした気にさせられて、ごまかされてしまう。問題の構造は温存されたまま変わらない。そういうことが、よくあるように思う。


●夏休み明けの問題は

不登校やひきこもりについても、同じような光景をよく見る。たとえば、ここ数年、過熱気味に報道されている夏休み明けの自殺問題も、プラスチックのストローと同じとまでは言わないまでも、同じような構造のなかで報道されているように思えてしまう。あたりまえのことだが、子どもが自殺にまで追い込まれてしまうのは、夏休み明けだけが問題なわけではない。

各地で取り組まれている夏休み明け前のキャンペーンなどに意味がないとは思わないし、私の関わるフリースクール・フォロでは、いち早く取り組んでもきたのだが、どうも問題がプラスチックのストロー的なものになってしまったような違和感がある。マスコミ報道などでは、伝えたい人に伝えたいことが伝わっているような感じがしない。

なんだか、とってももやもやする。
その違和感やもやもやについては、もう少し考えて、また文章にしてみたいと思っている。

プロフィール

HN:
山下耕平
性別:
男性
自己紹介:
1973年、埼玉県生まれ。大学を中退後、フリースクール「東京シューレ」スタッフを経て、『不登校新聞』創刊時(1998年)から8年間、編集長を務めた。2001年、フリースクール「フォロ」設立時より、同事務局長を務める。2006年より、同法人で18歳以上の人の居場所を始め、コーディネーターをしている(なるにわ)。2012年より関西学院大学で非常勤講師。著書に『迷子の時代を生き抜くために』(北大路書房2009)。野田彩花さんとの共著に『名前のない生きづらさ』(子どもの風出版会2017)。

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