blog: 迷子のままに


山下耕平(やました・こうへい)
NPO法人フォロ事務局長、不登校新聞社理事、
関西学院大学非常勤講師など。
おもに、不登校、ひきこもりなどにについて書いてます。

   

ブログを移転しました。

ブログを下記に移転しました。

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今後とも、よろしくお願いします。

2020年2月5日
山下耕平


黄色いタクアンのメモリー

先日、食事に黄色いタクアンが出てきて、ふと思い出したことがある。

小学生のころのことだ。友だちとどこかに出かけた折、その友だちのお母さんがおにぎりをつくって持たせてくれたのだが、そこに自家製の黄色いタクアンが入っていた。いまでこそ発酵食品は大好きだが、当時の私にとって、そのタクアンはにおいが強烈で、とっても食べられそうになかった。それで、友だちの目を盗んで、ゴミ箱にタクアンを捨ててしまったのだった。でも、捨てたことは友だちに察知されてしまって、その友だちは、「食べ物を捨てるなよな……」と、悲しそうに、そして吐き捨てるように言った。私は、友だちも、友だちのお母さんの気持ちも傷つけてしまったようで、自分がたいへん恥ずかしかった。冷や汗というものを知ったのも、そのときが初めてだったかもしれない。

そんなことは、ふだんは忘れてしまっていて、自分から思い出すことはない。記憶というのは、自分に都合のよいように整理してしまっているもので、都合の悪いことはフィルターの向こう側に追いやってしまっている。もちろん、何でもかんでも覚えていられるものではないし、忘れることが必要なこともあるし、誰しも勝手に記憶を都合のよいように整理して生きているものだろう。

しかし、忘れていたと思っていても、黄色いタクアンのように、ふとしたきっかけで、呼び起こされる記憶もある。都合の悪い記憶というのは、自分から思い起こすことはできないのかもしれない。だからこそ、「外」から呼び起こすノックがあったときは、なるべく素直に受けとめたいと思う。自分にとって痛い記憶でも(だからこそ)、そのノックを無視したり、なかったことにしてはいけないように思う。

タクアンをかじりながら、ほろ苦い思い出をかみしめる新年だった。




「仕組み」に隠れるのではなく

人は人のことを外形的なところで判断することが多い。たとえば、学歴だとか資格だとか会社名だとか収入だとか。あるいは、何かの被害があって、それを裁判などで闘う場合などでも、同じようなことはあるだろう。被害の程度は外形的に金銭に置き換えられ、算定される。それはそれで、仕方のない面もあるのだろうけれど、内実的なところから声を発して、それを人の内実に向かって届けたいと思っているとき、それが外形的なところだけで処理されてしまうのでは、とても悲しいし、とてつもなく、むなしい。

ふと、水俣病患者の認定問題で、チッソや行政と闘っていた緒方正人さんのことを思い出す。緒方さんは、闘争のなかで、「自分が目に見えないシステムと空回りしてけんかしているような気がしてきた」と語り、認定闘争を途中でやめてしまう。そして、チッソの前にゴザを敷いて座り込み、ひとりひとりの社員に向かって、対話を呼びかけていた。緒方さんは言う。

加害者チッソとは「仕組みとしてのチッソ」「構造としてのチッソ」のことなのではないか。その中に生身の人間がいたはずだし今もいるけれども、仕組みの陰で逃げ隠れしているのではないか。ですから、株式会社チッソとしては、判決で負ければ、責任もいやいや認めるし補償もしてきたわけですが、人としての責任は四十数年たっても認めていない。つまり、的のはずの人間には問いが突き刺さっていなかったということを言いたいのです。
(『チッソは私であった』葦書房2001)


そして、緒方さんは、その「仕組みとしてのチッソ」は、自分自身のことだとも言う。
私は、チッソというのは、もう一人の自分ではなかったかと思っています。私たちの生きている時代は、たとえばお金であったり、産業であったり、便利なモノであったり、いわば「“豊かさ”に駆り立てられた時代」であるわけですけれども、私たち自身の日常的な生活が、すでにもう大きく複雑な仕組みの中にあって、そこから抜けようとしても、なかなか抜けられない。まさに水俣病を起こした時代の価値観に支配されているような気がするわけです。

この四十年の暮らしの中で、私自身が車を買い求め、運転するようになり、家にはテレビがあり、冷蔵庫があり、そして仕事ではプラスチックの船に乗っているわけです。いわばチッソのような化学工場が作った材料で作られたモノが、家の中にもたくさんあるわけです。水道にしてもそうですけど、パイプに使われている塩化ビニールの大半は、当時チッソが作っていました。最近では液晶にしてもそうですけれども、私たちはまさに今、チッソ的な社会の中にいると思うんです。ですから、水俣病事件に限定すればチッソという会社に責任がありますけれども、時代の中ではすでに私たちも「もう一人のチッソ」なのです。「近代化」とか「豊かさ」を求めたこの社会は、私たち自身ではなかったのか。自らの呪縛を解き、そこからいかに脱していくのかということが、大きな問いとしてあるように思います。(前掲書)


そういう意味で言えば、水俣病は私たちの「病」だろう。この「仕組み」から脱することは容易ではない。けれども、期せずしてそこからはみ出してしまったとき、たとえば学校に行けなくなったり、ひきこもったりしたとき、そこで人がまず求めるのは、学校や会社といった「仕組み」にもどることよりも、生身の人との内実的な対話、なのではないだろうか。

あるいは、もし加害・被害という事態が生じてしまったとき、それが少しでも希望につながるとしたら、それはやはり、補償といった外形的な解決策だけではなく、生身の人どうしの内実的な対話の先にあるのではないだろうか。もちろん、それは簡単なことではないし、ややもすれば、二次被害を生じさせてしまいかねない。しかし、だからこそ、たとえば「修復的対話」といった工夫も模索されているのだろう。また、そこで求められるのは、加害・被害の当事者だけではなく、関わる人たちすべてが、そこでどういう対話ができるかだろう。

何より、自分自身が、「仕組み」に隠れるのではなく、生身の自分を差し出して、対話に開かれていられるようでありたいと思う。


手弁当パラドックス

てべんとう【手弁当】:自身で弁当を持参すること。また、弁当代を自弁すること。また、報酬を当てにせず奉仕すること。手弁。「―で選挙の応援をする」(広辞苑第6版)


NPO活動の界隈では、「手弁当でやっている」と聞くことが多い。 「手弁当」は、広辞苑では「報酬を当てにせずに奉仕すること」となっているが、実際は、当てにしていても無報酬だったり、低賃金だったり、サービス残業だったりするということも多い。なぜ、そうなるのかと言えば、市場サービスでも行政サービスでも届かないような領域の活動を、市民が自分たちの力でなんとかしようとしているからだろう。

お金や制度でドライに割りきってしまうのでは、成り立たない領域がある。しかし、それを手弁当で成り立たせようとすると、無報酬や低賃金労働が常態化し、いわゆる「やりがい搾取」になってしまう。また、活動をするには、家賃や光熱費など人件費以外にもコストがかかり、その費用は市場に払っている。収入は不安定にもかかわらず、支出は確実に出ていく。調整弁とできるのは人件費しかない。そういうことが多いように思う。

手弁当の活動は、常に矛盾に引き裂かれている。その矛盾を自分にしわ寄せすることで、なんとかやっている。結果、活動の理念に反して、肝心の活動する人自身が疲弊してしまうということも多い。それでも活動を続けることができる人というのは、その矛盾を抱え続けられるだけのタフさがあるか、それだけのサポートを得られる人にかぎられてしまう。

また、手弁当であるがゆえに陥りやすい問題もある。手弁当でやっていると、どうしても「こんなに一生懸命、手弁当でやっているのに」という気持ちになってしまう。そこで、相手(あるいは仲間)が思うように動かなかったり、うまくいかないことがあると、相手への思いが反転して、憎悪のような気持ちが生じてしまう。ややもすれば、それはハラスメントにつながってしまうだろう。

あるいは、費用が安かったり無償だったりすると、利用する側は、活動の理念にまで共感しているわけではなく、たんに安いサービスとして利用していることもある。そうであってもかまわないのだが、活動をしている側からすると、たんに安く利用されているだけという気持ちも生まれてしまう。活動する側が「ともに活動をつくりたい」と思っていても、利用する側からすると、それはひとつの道具でしかないということもある。

理想的には、手弁当の活動は、お金を払って消費するだけのサービスとはちがって、ともに考え合い、対話し、そこから活動を生み出していくものでありたい。しかし、理念を徹底しようとすれば先鋭化し、ややもすればカルトになってしまう。あるいは、理念には共感しても、「当事者」には、ともに活動していくだけの余力がない場合もある。

さらに言えば、手弁当の活動の世話になるというのは、それを利用する側に、負債感を与えてしまうこともある。対価をきちんと払っている場合には、そこで決済されるはずのものが、無償だったり、手弁当でまかなわれている場合は、関係が非対称になってしまう。意図はしていなくとも、そこに独特の力関係が発生してしまう。これも、ややもすればハラスメントの温床となってしまう。

手弁当の世界はパラドックスに満ちている。だからダメだと言いたいのではない。矛盾があるのは、ある意味当然で、だからこそ考えることもたくさんあるし、そこで生まれるものもあるのだと思う。ただ、そこで生じていることに対して、「正しい活動をしているのだから」と、その矛盾を抑圧するようなことは、してはならないのだと思う。そして、矛盾が顕在化したときには、真摯にそれを受けとめ、外に開いて考えていくことが必要なのだと思う。

また、こうしたどろどろの矛盾に対して、上空からながめるような乾いた批判はむなしい。なぜなら、手弁当の活動にある矛盾は、多かれ少なかれ、誰しもの足下の問題でもあるからだ。NPOなどでなくとも、職場や家族のなかで、お金や制度で割りきれない領域はかならずあって、それゆえの矛盾はあるものだろう。自分の足下をさておいて、他人事のように批判することはできないのではないか。手弁当パラドックスは、自分の足下からこそ、考えていく必要がある。

深く自戒を込めつつ、そう言いたい。


イラストは、ソルシエールさん(イラストACより)


子どもの自殺者数増加について

文科省の調査(*1)によると、2018年度の小・中・高校生の自殺者数は332人で、現在の統計方法になった1988年度以降、過去最多となったという。ここ3年連続で増加傾向にあるが、その前の3年、2013年度から2015年度にかけては、240人から215人まで減少傾向にあった。それが2016年度から再び増加に転じ、2017年度から2018年度にかけては250人から332人へと、82人も増えている。

ただし、この調査は「学校が把握し、計上したもの」となっているため、実態を反映しているのか、疑問の声もある。自殺の統計には警察庁の調査もある(*2)。それによると、19歳以下の年間自殺者数は、2016年520人、2017年567人、2018年599人と、やはりこの間は増加している。

たいへん気がかりな数字だ。自殺の要因については、さまざまであろうし、文科省の調査でも「不明」が6割となっている。実際問題として、人が自殺にいたるには、いろんなことがからみあっているだろうし、理由を安易に特定することはできないだろう。しかし、一方で影響がないか、検証が必要だと思うのは、夏休み明けの自殺に関連する報道のあり方についてだ。

内閣府が18歳以下の日別自殺者数を発表し、9月1日が突出して多いことがわかったのが2015年。以来、不登校新聞社をはじめとして、夏休み明け前後の時期には、不登校と夏休み明けの自殺をからめた報道キャンペーンが、毎年、過熱気味にくり返されてきた。そして、その間、子どもの自殺者数は、増えているのだ。この数字を、関係者は重く受けとめなければならないだろう。


※文部科学省の調査は期間が「年度」で、対象は小・中・高校生、警察庁の調査は期間が「年」で対象は19歳以下となっているので、単純比較はできない。


「神様化」も「悪魔化」もせずに

社会問題などに取り組んで信頼されてきた個人や団体が、何か失言なり不祥事なりを起こすと、信頼を失ってしまう。それは当然のことでもあるだろうが、その一点で、すべての信頼を失ってよいのか、と思うこともあるだろう。失言や不祥事への批判はきちんとしなければならないが、ややもすると、それが人格攻撃のようになって、その人(団体)の言動のすべてが悪いというようなバッシングとなってしまう。反面、そういうバッシングを避けようと、きちんと批判や検証することを控える人たちがいて、その人たちは沈黙してしまう。結果、問題をきちんと検証することができず、忘却されていってしまう。そういうことが、ままあるように思う。

「罪を憎んで人を憎まず」ではないが、誰かの言動を批判をするときは、その人の人格とは切り分けないといけないと思う。第一、どんな立派なことをしている人であっても、結局は、人間のやっていることであって、まちがいもあれば、わかっていないこともあるものだろう。ひとつの問題に理解の深い人が、ほかの問題をわかっていないことなど、たくさんある。勝手に「神様化」しておいて、「神様じゃなかった!」と嘆くのはむなしい。

逆もまた然りで、どんな悪いことをしている人でも、正しいことをすることもあれば、やさしかったりすることもあるだろう。たとえば、ユダヤ人のホロコーストを指揮したアイヒマンは、極悪人などではなく、ごく平凡な役人で家庭人だったそうだ。理解不能な「悪魔」だったわけではない。

問題と人格をいっしょくたにすれば、その人を排除するしかなくなってしまう。そうなると、問題をきちんと検証することもできないし、対話もできない。あるいは、こちらが人格と切り分けて批判しているつもりでも、相手が人格攻撃と受けとめてしまうと、批判には壁を立てられてしまう。そして、もっとタチが悪いのは、個人対個人ではなく、派閥どうしの争いのようになってしまうことだろう。そうなると、敵か味方かに二分してしまい、自分たちの陣営にあることは、問題があっても目をつむり、相手のほうの問題は攻撃するということになってしまう。

批判が対話に開かれるとすれば、まずは自分への批判を真摯に受けとめることからしか、始まらないのかもしれない。自分自身だって、批判されるべきことはたくさんあって、他者を一方的に指弾できるほど、正しい存在なわけではない。だからといって、なあなあにしようということではない。おたがいに、問題と人格とは切り分けて、対話すること。それは、勝つか負けるか、ということではないのだから。

こんなことをあらためて書くのは、おこがましいような気もしたのだが、身近なところでも、さまざまな局面で、こうしたことが生じているように思えて、書きとめておきたくなった次第。ご批判歓迎。



イラスト: しゅうまいイラストACより

「登校」「不登校」を二項対立にしないこと

何の問題でも、当事者をさしおいて、支援者やら専門家やらがわがもの顔で、わかったように語るのは恥ずかしいことだろう。たとえば不登校について、専門家たちは、やれ母子分離不安だの、父性の欠如だの、怠けだの、耐性の欠如だのと、ずいぶんなことを言ってきたのだが、そういうことを言わなくなったあとも、きちんとそれを省みている人はあまりいない。

「当事者主権」や「当事者研究」というように、どんな問題でも、専門家たちに一方的に判断してもらうのではなく、自分たちのことは自分たちで考え合い、そこから支援のあり方なり、望ましい社会のあり方なりを考えていくことは大事なことだろう。

しかし、当事者が言うのであれば、何でも正しいのかと言えば、当然そうではない。第一、同じ問題の当事者でも、個々人によってさまざまで、誰が代弁できるのかという問題がある。また、ひとつの問題の当事者は、その部分だけを生きているわけではなく、さまざまな当事者性が重なり合っている。たとえば、同じ不登校といっても、親の職業や収入状況、地域、性別、セクシュアリティ、ほかのマイノリティの当事者性など、さまざまで、けっして一概には語れない。

社会学者の鄭暎惠は、マイノリティの語りについて、次のように言う。
マイノリティが、「マジョリティ」に向かって、「マイノリティ」として語るとき、細心の注意を払わなくてはならない。「マイノリティ」として語ることが、〈聞き手〉によって、ある〈代表性〉を付随されていないか、と。ある「マイノリティ」が何かを表現することが、それ以外の「マイノリティ」の表現を、封じ込める口実となってしまってはいないか、と。この問題を超えるためには、「マイノリティ」としてのアイデンティティを揺さぶるしかない。「マイノリティ」―「マジョリティ」の二項対立のなかで、アイデンティティを打ち立てないこと。「マジョリティ」に向かって語るときは、かならず「マイノリティ」どうしのあいだにもある差異についても語り、「マジョリティ」によるステレオタイプ化を許さないこと。だが、まず何よりも肝心なことは、「マジョリティ」に向かって、「マイノリティ」として語らないこと、これにつきる。(鄭暎惠「アイデンティティを超えて」井上俊ほか編『差別と共生の社会学』岩波書店1996)

不登校に即して言えば、フリースクールなどに通っていた人たちの語りが、不登校を代弁する語りとして広まり、受けいれられてきたところがある。しかし、文科省の調査(*)によれば、フリースクールに通っている義務教育段階の子どもの数は4200人で、不登校している児童生徒の3.5%にすぎない。しかも、フリースクールは都市部に偏在している。フリースクール経験者の語りは、けっして不登校全体を代弁できるものではない。

また、不登校は無登校ではない。不登校というのは、年間30日以上の長期欠席のうち、病気や経済的理由をのぞいたものを指すが、不登校数14万4031人(小・中学生/2017年度)のうち、出席日数が10日以下の人は1万6074人。不登校全体の1割ほどだ。「登校」と「不登校」は、二項対立でくくれるものではなく、グラデーションのようになっているものだ。しかし、それがマジョリティに向かって語られるとき、二項対立のなかで、「不登校」はひとつのアイデンティティとなってしまう。それは、ほかの当事者の語りを抑圧してしまうだけではなく、語っている本人にとっても、とてもあやういものだ。なぜなら、自分のアイデンティティを「不登校」に固めてしまうことにもなるからだ。

では、どう考えたらよいのか。鄭は、次のように言う。
「マイノリティ」は、「マイノリティ」に向かってこそ、おおいに語るべきなのだ。語り合い、「マイノリティ」としてくくられた者どうしにもある〈差異〉を浮き彫りにしていくこと。そして、その〈差異〉をてことして、差別によって埋もれた〈自己〉を発掘していくこと、それこそがいま必要なことなのだ。(前掲書)

不登校は、当事者性のひとつではあるだろうけれども、そこにはさまざまな差異がある。マジョリティに向かって語ろうとすると、ステレオタイプになってしまうが、不登校経験者どうしで語り合えば、そこからは差別によって埋もれた〈自己〉を発掘していくことができる。たとえば「当事者研究」には、そうした可能性もあるように思う。

私自身のことを言えば、私は不登校の「当事者」ではない。しかし、ずっと不登校に関わり、そこから自分が問われ、考え続けてきた。たとえば、「なぜ学校に行かないのか」ではなく、「なぜ学校に行くのか」を考える。不登校〈を〉考えるのではなく、不登校〈から〉学校のあり方や社会のあり方を考える。これは、ほかのマイノリティの問題を考えるうえでも、必要なスタンスではないかと思っている。マジョリティの価値観を問わないまま、マイノリティのことを考えることは欺瞞でしかない。

マジョリティ―マイノリティの力関係を直視しつつ、それを二項対立にしないこと。さまざまな当事者性が交錯するなかで、その差異を大事にしつつ、考え合っていくこと。そのとき、自分の価値観を固定化させず、他者の声に聞く耳を持ち続けること。それは耳の痛いことではあるだろうけれども、自分の価値観を問い直すことは、〈自分〉を発掘する作業にもなり、そこには豊かさや可能性があるように思う。そして、そういうことが可能な場というのは、きっと小さな場だ。大きな声をはりあげないといけないような大きな場では、大きな声ばかりが通ってしまう。

小さな場で、小さな声で語り合い、ひとつの方向にまとめることなく、矛盾や葛藤をはらみつつ、ぐるぐると語り合っていくこと。そういうことが、大事なのだと思う。

*文部科学省2015「小・中学校に通っていない義務教育段階の子供が通う民間の団体・施設に関する調査」

「逆転人生」への抗議文

「逆転人生」石井志昂さんの回を見て、制作会社へ下記の抗議メールを送りました。番組全体に対してということではなく、私にかかわる部分についての抗議です。

 * * *

「逆転人生」石井志昂さんの回、拝見しました。
石井さんの個人史としては、大事なことを語っておられた面もあるかと思います。長く関わってきた私としても、感慨深く拝見したところもありました。しかしながら、下記の点については、抗議いたします。


●私の下記コメントは、文脈から切り離され、逆の意味になっています。

「学校に行けなくなってしまったということで、まわりからも否定的に見られるし、自分でも自分のことを否定的に見てしまうというなかで、学校に行かない代わりに、ほかでがんばることで自分を肯定しようと……」

私は、それは苦しいではないかという文脈で話していたはずです。それを途中で切ることによって、反対の意味にしていることに、強く抗議いたします。

もともと、私のコメントは削除してもらうよう、お願いしていたところですが、編集済みで、いまからの変更は難しいということで、しぶしぶ承知していました。しかし、このように反対の意味で使われたということには、まったく承服できません。再放送などされるのであれば、私のコメントは削除してください。


●事実関係がちがいます。

・石井さんが東京シューレに最初に来たときに出迎えたのは、奥地圭子さんと別のスタッフで、私は当時はボランティアスタッフでした。

・石井さんが不登校新聞社に就職したいという話は、私は直接聞いていません。それは奥地圭子さんに直談判したのであって、事実と異なります。

そのほか、いくつかの細かな事実関係が改ざんされていますが、事実関係を把握しておられながら、番組構成上、わかりやすくするために改ざんしたものと思われます。上記の点は、いた人がいなかったことにされ、私がその代役になっていることに抗議します。


なお、私としては、まちがったコメント、まちがった事実関係のままであることは承服できませんので、この抗議文は、ブログで公開いたします。


山下耕平

 * * *

2019.08.27追記

放送前に、私が自分のコメントの削除を要請したのは、東京シューレでの性被害の件が明らかとなり、被害者の方が、東京シューレや不登校新聞社がメディアに出るたびに、いまも深刻につらい思いをしていると聞いたからです。それは、石井志昂さん、制作会社にも伝えました。

夏休み明けの自殺問題を大々的に訴える一方で、ひとりの被害者の訴えをなかったことにして放映できる神経が、私には理解できません。せめて、自分のコメントは削除してほしかったのですが、改ざんされて使用され、きわめて不本意です。

 * * *

2019.08.28追記
制作会社とNHKから連絡があり、再放送に際しては、私のコメント部分は削除し、再現ドラマの私の登場部分についても、私と特定されないようナレーションを修正するとのことです。

「当事者」と「権威」をめぐる、ぐるぐる。

人のことを学歴や肩書きで見るのはおかしい。しかし、実際のところ世間では、人のことを学歴や肩書きなどの「権威」で判断している。「権威」のない人の言うことは、まったくと言っていいほど見向きされない。

その人が有名とか無名とか、「権威」の有無にかかわらず、人の言うことは、その中身で判断されるべきだ。しかし世間では、無名の人、「権威」のない人の言うことには、驚くほど聞く耳を持たない。世間の「権威主義」は、とても根深く、とても根強い。

不登校やひきこもりというのは、学歴や肩書きから(一時的であっても)外れてしまうことでもある。言葉を換えれば、世間的な「権威」がなくなってしまった状態とも言える。

そういうなかで、「権威」を持たない当事者が、自分も「権威」を持ちたいと思うこともあるが、その気持ちは否定できないし、否定してはならないだろう。

あるいは、「権威」ある人から認められたいと思うこともある。たとえば、自分たちの活動が大きなメディアでとりあげられると、社会から認められた気持ちになる。あるいは、著名な人が肯定的な発言をしてくれると、うれしく感じる。その気持ちも、否定はできない。しかし、その話す内容の是非は別にして、大きなメディアだからとか、権威ある人の言うことだから信頼するというのでは、それも「権威主義」と言える。それはややもすれば、「権威」を持たない人への否定のまなざしにもつながってしまうだろう。

当事者のなかでも、高い学歴を得た人、学者になった人、有名になった人など、「権威」を持った人の発言は聞く耳を持たれる。しかし、その場合、「あの人は特別」「あの人は才能があるから」というふうに処理されやすい。

もちろん、無名でも「当事者の声だから」と聞く耳を持たれることはあるが、その場合も、あくまで自分たちとは異なる人たちの声として処理されてしまいやすい。そして、どこか「当事者」を見下すまなざしも隠れていたりする。

また、一部の当事者の声が「権威」となってしまい、メディアなどで代弁されることもあるが、そうした代弁は、一方で多くの当事者に複雑な思いを生じさせてしまうこともある。そして、そういう思いは、得てして抑圧されてしまう。大きく報道されるときほど、抑圧されてしまうものも大きいように思う。

メディアは、それ自体が「権威」となっている。自分たちのことがメディアにとりあげられたり、ヤフートピックス上位に記事が出たりすると、それを喜ぶ声も見かける。その気持ちはよくわかるし、メディアで発言することがよくないということではない。メディアや「権威」を上手に使うということもあっていいだろう。しかし、そこに潜む「権威主義」に無自覚であってはいけないと思う。

私自身、「権威主義」から自由なわけではない。だけど(だからこそ)、自分の内にある「権威主義」は壊さないといけないと思う。「権威」のある人の言うことだからと鵜呑みにせず、「権威」のない人の言うことだからと軽んじるのではなく、その言うことの中身をきちんと聞きたい。そういう耳を持っていたいと思う。

「“不登校”44万人の衝撃」はフェイクニュースか

もう1カ月ほど前のことになるが、5月30日のNHKスペシャルで「“不登校”44万人の衝撃」という番組が放送された。番組には不登校新聞社も関わっていた。私は不登校新聞の元編集長で現在も理事のひとりでもあるが、この件はまったく知らなかったので驚いた。何に驚いたかと言えば、44万人という数字である。数字を誇大に盛って、「衝撃」とあおっている。フェイクニュースか、と言いたくなる。


○日本財団の調査

元になっているのは、日本財団が2018年10月にインターネットを利用して中学生を対象に行なった調査だ(「不登校傾向にある子どもの実態調査報告書」)。調査は、子どものタイプを下記のように分類している。

・不登校 :文科省定義の不登校
学校に行っていない状態が一定期間ある子ども(30日以上欠席)

・不登校 :文科省定義外の不登校
学校に行っていない状態が一定期間ある子ども(30日未満/1週間以上連続欠席など)

・教室外登校
学校の校門・保健室・校長室などには行くが、教室には行かない子ども

・部分登校
基本的には教室で過ごすが、授業に参加する時間が少ない子ども(遅刻早退が1カ月に5回以上など)

・仮面登校A:授業不参加型
基本的には教室で過ごすが、みんなとちがうことをしている子ども(月 2~3回以上、または1週間続けて)

・仮面登校B:授業参加型
基本的には教室で過ごし、みんなと同じことをしているが、心の中では学校に通いたくない学校がつらい・嫌だと感じている子ども(毎日)

・登校
学校になじんでいる


このうち、「文科省定義の不登校」は10万8999人、これに加えて33万人が「不登校傾向」だとしているが、その内訳は、「文科省定義外の不登校」が5万9921人、「教室外登校」「部分登校」「仮面登校A」をあわせて13万703人、「仮面登校B」が14万2161人となっている。

「文科省定義以外の不登校」約6万人をカウントするのはまだわかるが、33万人のうち27万人は、基本的に学校には行っている子どもたちで、とくに「仮面登校(A・B)」については、内心の問題を「不登校傾向」と言っている。NHKは、それをもって「“不登校”44万人の衝撃」だと言っているのだが、これはいかにも誇大な表現と言えるだろう。

日本財団の別の記事では「不登校傾向」を「隠れ不登校」とも表記している。そして、今回の調査で初めて明らかになったかのように報じているが、この「不登校傾向」なり「隠れ不登校」というのは、新しい問題ではない。


○30年前の調査では

同様の調査は、30年前の1989年に、中学2年生を対象に森田洋司が行なっている(「児童・生徒の問題行動とプライバタイゼーションの進行に関する総合的研究」/『不登校現象の社会学』学文社1991)。それによると、なんらかの頻度で「学校へ行くのが嫌になったことがある」と答えた生徒は全体の70.8%だった。これを森田は「登校回避感情」と呼び、「不登校への傾斜過程」としていた。そして、「登校回避感情」の拡がりは、たんに学校教育の問題に起因するのではなく、社会の私事化(プライバタイゼーション)の進行に起因すると見たのが、森田の調査だったと言えるだろう。


○ふたつの調査の共通点と、まなざしのちがい

日本財団の調査では、「不登校」と「不登校傾向」の割合は、あわせて中学生全体の約13%となっている。単純な比較はできないが、どちらも欠席には及んでいない子どもたちの「登校回避感情」を調査したという点は共通している。しかし、ふたつの調査では、その調査結果へのまなざしがちがうように思う。

日本財団の調査では、本調査に続く追跡調査で「学びたいと思える場所」を質問し、「自分の好きなことを突きつめることができる」「クラスや時間割に縛られず、自分でカリキュラムを組み立てることができる」などの回答が多かったと報告している。そして、NHKの番組放送直後から、Twitterを活用して、「#学校ムリかも」から「#ミライの学び」へというキャンペーンを始めた(6月末まで)。

森田の調査が、社会の私事化を問題視していたのに対して、日本財団の調査報告は、私事化を促進するような方向にある、と言えるだろう。そして、日本財団の調査やNHKの報道と歩調を合わせるように、教育機会確保法の見直しでは個別学習計画案が再浮上し、政府の規制改革推進会議では、ICTを活用した義務教育における通信制の導入が議論されている。経産省では未来の教室実証事業が推進されており、クラスジャパンプロジェクトでは、小中学園を開校すると発表された。

日本財団の調査報告、NHKの「“不登校”44万人の衝撃」という報道には、義務教育民営化への誘導を感じざるを得ない。フェイクニュースでなければ、ミスリードニュースだと言っておきたい。


プロフィール

HN:
山下耕平
性別:
男性
自己紹介:
1973年、埼玉県生まれ。大学を中退後、フリースクール「東京シューレ」スタッフを経て、『不登校新聞』創刊時(1998年)から8年間、編集長を務めた。2001年、フリースクール「フォロ」設立時より、同事務局長を務める。2006年より、同法人で18歳以上の人の居場所を始め、コーディネーターをしている(なるにわ)。2012年より関西学院大学で非常勤講師。著書に『迷子の時代を生き抜くために』(北大路書房2009)。野田彩花さんとの共著に『名前のない生きづらさ』(子どもの風出版会2017)。写真は、内池秀人さん撮影。

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