blog 迷子のままに:

山下耕平(やました・こうへい)
NPO法人フォロ事務局長、不登校新聞社理事など。

不登校、ひきこもりなどを中心に、書いてます。
一部は「なるにわブログ」から引き継いでます。

   

「当事者」と「権威」をめぐる、ぐるぐる。

人のことを学歴や肩書きで見るのはおかしい。しかし、実際のところ世間では、人のことを学歴や肩書きなどの「権威」で判断している。「権威」のない人の言うことは、まったくと言っていいほど見向きされない。

その人が有名とか無名とか、「権威」の有無にかかわらず、人の言うことは、その中身で判断されるべきだ。しかし世間では、無名の人、「権威」のない人の言うことには、驚くほど聞く耳を持たない。世間の「権威主義」は、とても根深く、とても根強い。

不登校やひきこもりというのは、学歴や肩書きから(一時的であっても)外れてしまうことでもある。言葉を換えれば、世間的な「権威」がなくなってしまった状態とも言える。

そういうなかで、「権威」を持たない当事者が、自分も「権威」を持ちたいと思うこともあるが、その気持ちは否定できないし、否定してはならないだろう。

あるいは、「権威」ある人から認められたいと思うこともある。たとえば、自分たちの活動が大きなメディアでとりあげられると、社会から認められた気持ちになる。あるいは、著名な人が肯定的な発言をしてくれると、うれしく感じる。その気持ちも、否定はできない。しかし、その話す内容の是非は別にして、大きなメディアだからとか、権威ある人の言うことだから信頼するというのでは、それも「権威主義」と言える。それはややもすれば、「権威」を持たない人への否定のまなざしにもつながってしまうだろう。

当事者のなかでも、高い学歴を得た人、学者になった人、有名になった人など、「権威」を持った人の発言は聞く耳を持たれる。しかし、その場合、「あの人は特別」「あの人は才能があるから」というふうに処理されやすい。

もちろん、無名でも「当事者の声だから」と聞く耳を持たれることはあるが、その場合も、あくまで自分たちとは異なる人たちの声として処理されてしまいやすい。そして、どこか「当事者」を見下すまなざしも隠れていたりする。

また、一部の当事者の声が「権威」となってしまい、メディアなどで代弁されることもあるが、そうした代弁は、一方で多くの当事者に複雑な思いを生じさせてしまうこともある。そして、そういう思いは、得てして抑圧されてしまう。大きく報道されるときほど、抑圧されてしまうものも大きいように思う。

メディアは、それ自体が「権威」となっている。自分たちのことがメディアにとりあげられたり、ヤフートピックス上位に記事が出たりすると、それを喜ぶ声も見かける。その気持ちはよくわかるし、メディアで発言することがよくないということではない。メディアや「権威」を上手に使うということもあっていいだろう。しかし、そこに潜む「権威主義」に無自覚であってはいけないと思う。

私自身、「権威主義」から自由なわけではない。だけど(だからこそ)、自分の内にある「権威主義」は壊さないといけないと思う。「権威」のある人の言うことだからと鵜呑みにせず、「権威」のない人の言うことだからと軽んじるのではなく、その言うことの中身をきちんと聞きたい。そういう耳を持っていたいと思う。

「“不登校”44万人の衝撃」はフェイクニュースか

もう1カ月ほど前のことになるが、5月30日のNHKスペシャルで「“不登校”44万人の衝撃」という番組が放送された。番組には不登校新聞社も関わっていた。私は不登校新聞の元編集長で現在も理事のひとりでもあるが、この件はまったく知らなかったので驚いた。何に驚いたかと言えば、44万人という数字である。数字を誇大に盛って、「衝撃」とあおっている。フェイクニュースか、と言いたくなる。


○日本財団の調査

元になっているのは、日本財団が2018年10月にインターネットを利用して中学生を対象に行なった調査だ(「不登校傾向にある子どもの実態調査報告書」)。調査は、子どものタイプを下記のように分類している。

・不登校 :文科省定義の不登校
学校に行っていない状態が一定期間ある子ども(30日以上欠席)

・不登校 :文科省定義外の不登校
学校に行っていない状態が一定期間ある子ども(30日未満/1週間以上連続欠席など)

・教室外登校
学校の校門・保健室・校長室などには行くが、教室には行かない子ども

・部分登校
基本的には教室で過ごすが、授業に参加する時間が少ない子ども(遅刻早退が1カ月に5回以上など)

・仮面登校A:授業不参加型
基本的には教室で過ごすが、みんなとちがうことをしている子ども(月 2~3回以上、または1週間続けて)

・仮面登校B:授業参加型
基本的には教室で過ごし、みんなと同じことをしているが、心の中では学校に通いたくない学校がつらい・嫌だと感じている子ども(毎日)

・登校
学校になじんでいる


このうち、「文科省定義の不登校」は10万8999人、これに加えて33万人が「不登校傾向」だとしているが、その内訳は、「文科省定義外の不登校」が5万9921人、「教室外登校」「部分登校」「仮面登校A」をあわせて13万703人、「仮面登校B」が14万2161人となっている。

「文科省定義以外の不登校」約6万人をカウントするのはまだわかるが、33万人のうち27万人は、基本的に学校には行っている子どもたちで、とくに「仮面登校(A・B)」については、内心の問題を「不登校傾向」と言っている。NHKは、それをもって「“不登校”44万人の衝撃」だと言っているのだが、これはいかにも誇大な表現と言えるだろう。

日本財団の別の記事では「不登校傾向」を「隠れ不登校」とも表記している。そして、今回の調査で初めて明らかになったかのように報じているが、この「不登校傾向」なり「隠れ不登校」というのは、新しい問題ではない。


○30年前の調査では

同様の調査は、30年前の1989年に、中学2年生を対象に森田洋司が行なっている(「児童・生徒の問題行動とプライバタイゼーションの進行に関する総合的研究」/『不登校現象の社会学』学文社1991)。それによると、なんらかの頻度で「学校へ行くのが嫌になったことがある」と答えた生徒は全体の70.8%だった。これを森田は「登校回避感情」と呼び、「不登校への傾斜過程」としていた。そして、「登校回避感情」の拡がりは、たんに学校教育の問題に起因するのではなく、社会の私事化(プライバタイゼーション)の進行に起因すると見たのが、森田の調査だったと言えるだろう。


○ふたつの調査の共通点と、まなざしのちがい

日本財団の調査では、「不登校」と「不登校傾向」の割合は、あわせて中学生全体の約13%となっている。単純な比較はできないが、どちらも欠席には及んでいない子どもたちの「登校回避感情」を調査したという点は共通している。しかし、ふたつの調査では、その調査結果へのまなざしがちがうように思う。

日本財団の調査では、本調査に続く追跡調査で「学びたいと思える場所」を質問し、「自分の好きなことを突きつめることができる」「クラスや時間割に縛られず、自分でカリキュラムを組み立てることができる」などの回答が多かったと報告している。そして、NHKの番組放送直後から、Twitterを活用して、「#学校ムリかも」から「#ミライの学び」へというキャンペーンを始めた(6月末まで)。

森田の調査が、社会の私事化を問題視していたのに対して、日本財団の調査報告は、私事化を促進するような方向にある、と言えるだろう。そして、日本財団の調査やNHKの報道と歩調を合わせるように、教育機会確保法の見直しでは個別学習計画案が再浮上し、政府の規制改革推進会議では、ICTを活用した義務教育における通信制の導入が議論されている。経産省では未来の教室実証事業が推進されており、クラスジャパンプロジェクトでは、小中学園を開校すると発表された。

日本財団の調査報告、NHKの「“不登校”44万人の衝撃」という報道には、義務教育民営化への誘導を感じざるを得ない。フェイクニュースでなければ、ミスリードニュースだと言っておきたい。


学校への疎外、学校からの疎外

教育機会確保法をはじめとして、最近の不登校やフリースクールをめぐる情勢に、なんでこんなに違和感を覚えるのかを考えたとき、そこには、「疎外」の問題があるように思う。

「疎外」だなんて、いかにもいかめしい言葉だと思うが、ちょっとばかり、おつきあいいただきたい。

社会学者の見田宗介は、「二重の疎外」ということを言っていた。いわく、「貨幣への疎外」があって、「貨幣からの疎外」が問題となる。どういうことか。

「貨幣への疎外」というのは、お金でしか生活ができなくなることだ。いまや、私たちは衣・食・住すべてを、お金でまかなっている。ガンジーみたいに糸車をまわして糸を繰って衣服を織る人なんて、ほとんどいない。おおかたの人は、日々、着るものも食べるものも住む場所も、お金で買っている。水道光熱費もしかり。井戸から水をくみ上げたり、裏山から薪を切り出してくる人はほとんどいない。生活というものが、すべて消費になっている。そうすると、そのためのお金を稼ぐことが必要になり、働くこと=お金を稼ぐことになる。つまりは、自分も労働力を売って生活するほかなくなる。これが「貨幣への疎外」ということだろう。

そして、お金でしか生活できない世界では、「貨幣からの疎外」=お金がないことが問題になる。お金がないことが、そのまま生活できないことにつながってしまう。「貨幣への疎外」があって、「貨幣からの疎外」が問題となる。それが「二重の疎外」ということだろう。

これを学校にあてはめても、同じことが言える。つまり、「学校への疎外」があって、「学校からの疎外」が問題となる。学校へ行かないと就職が困難になってしまう世界(=「学校への疎外」)では、不登校(=「学校からの疎外」)が問題となる。不登校が問題とされてきたのは、個々人の問題以前に、そもそも人びとが学校へと疎外されてしまっているからだと言える。

不登校から問われてきたのは、「学校からの疎外」の問題だけではなく、そもそもの「学校への疎外」の問題でもあったのではないだろうか。しかし、多くの場合、そもそもの「学校への疎外」は意識すらされていない。お金を稼がないと生きていけなくなっていること(貨幣への疎外)が、おかしいとは思えなくなっているのと同じように。

それでも、たとえばイヴァン・イリイチが「脱学校」とか言っていたのは、「学校への疎外」を問題にしていたように思う。かつての不登校運動も、「学校への疎外」そのものを問うていたところはあったように思う。

しかし、いまや「学校への疎外」は自明のこととされ、その「学校」を多様化することだけが求められている。もう少し正確に言うなら、「教育への疎外」と言ったほうがいいかもしれない。いかに教育が多様化されようとも、「教育への疎外」の苦しさの根は変わらない。

そして、その苦しさの根が置き去りにされているがために、その置き去りにされたものからは、より大きなかたちでしっぺ返しを受けているように思えてならない……。

キラキラ支援者、キラキラ支援臭

不登校やひきこもりの「支援」にかぎらないのだが、こういう物言いをする人は信頼できないな、と思うことがある。たとえば、

・数字を誇る(これまで何人と関わった、など)。
・権威を誇る(過去のメディア露出など)。
・断定的に「正解」を示す。
・ビフォア/アフターで効果を示す。
・「成功例」ばかり示す。
・自分への内省がない。

こういう人たちのことを、「キラキラ支援者」とでも言っておこう。

しかし、「キラキラ支援者」的な物言いは、とってもよく見かける。そして、そういう物言いができないから、「商売」が下手なんだと内省してしまう。「商売」だけではない。いつだったか、私の関わるNPOで、寄付を募るための工夫をアドバイスしてもらうという機会があったのだが、そこで提案されたのも、思い返せば上記のようなことだった。1日○○円で○○人の人を救えます、こういう成功例につながりました、ビフォア/アフターを示す、エッジを効かせてアピールしましょう、などなど……。

そのときは、何かおかしいと感じながら、うまく言葉にならなかったのだが、それらは、市場で商品を流通させるには必要な物言いかもしれないけれども、非営利活動や寄付を募ることにまで、市場の論理が入っていることに違和感を覚えたのだと思う。しかし、非営利活動は、市場からはこぼれてしまう問題だったり、市場では解決できない問題に取り組んでいるはずだ。

そして、市場で器用にふるまえない人が、市場からこぼれてしまっている。そういう当事者を、市場でキラキラさせることが「支援」なのだろうか? そこでは、「キラキラ」しないものは「なかったこと」にされてしまう。その抑圧は、とってもタチが悪いと私は思う。

「支援」が、なんらかの「成功」や「解決」につながることを否定しているわけではない。しかし、どうにも薄っぺらい「キラキラ」が鼻につく。そして、非営利セクターまでが、その「キラキラ」に覆われてきていることが、鼻持ちならないのだ。それを「キラキラ支援臭」とでも言っておこう……。

プロフィール

HN:
山下耕平
性別:
男性
自己紹介:
1973年、埼玉県生まれ。大学を中退後、フリースクール「東京シューレ」スタッフを経て、『不登校新聞』創刊時(1998年)から8年間、編集長を務めた。2001年、フリースクール「フォロ」設立時より、同事務局長を務める。2006年より、同法人で18歳以上の人の居場所を始め、コーディネーターをしている(なるにわ)。2012年より関西学院大学で非常勤講師。著書に『迷子の時代を生き抜くために』(北大路書房2009)。野田彩花さんとの共著に『名前のない生きづらさ』(子どもの風出版会2017)。

拙 著


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